アイヌ文化12世紀発生の呪縛

orig: 2001/05/27


アイヌ文化は12世紀(14世紀とする人もあるようだが)から形成され始めた、という説がある。それはそれで結構なのだが、その説の本質が誤解されている節がある。

すなわち、アイヌ文化は12世紀以降のものだから、アイヌ人もそれ以前は日本列島にいなかったし、アイヌ語もなかった、という誤解である。

この解釈はちょっと考えてみればおかしなことに気がつくはずだ。つまり、そうなら、アイヌ文化を担ったアイヌ人は12世紀頃にどこかから来たのか、ということだ。それが大陸のどこかだとしたら、そこの言語とのつながりはどうなのか? これまで色々な研究があったに拘わらずアイヌ語は言語の孤島だ、といわれる位に周辺に親類となる言語が見つからないのだ。(この点に於いては日本語も同じく系統を同じくする言語が見つかっていない。)

オホーツク文化の影響を受けた、という研究もあり、そうなのであろう。しかし、言語に関して言えば、アイヌ語はオホーツク地域のどの言語とも関係があるとは、寡聞にして聞いたことがない、恐らく立論すらされていないのではないだろうか。有力な論があれば、アイヌ語は言語の孤島、などとは言われないはずだ。

アイヌの熊祭りとか「シャーマン」という単語とか、幾つかオホーツク文化の寄与は観察されようだが、まず言語面でアイヌ語の大綱を変えたとは思われない。その理由は、オホーツク文化の影響を受けた地域でも受けなかった地域でも、方言差はあるものの、同じアイヌ語が行われていることである。

むしろ分子人類学(ミトコンドリアDNAなど)の方からは、アイヌ人の一部、縄文人の一部、そして日本人の一部は、同一の塩基パターンをもっていた、という研究成果が出ている。(この日本人グループは縄文系日本人と言えよう。)あいにくオホーツク地域の人達のサンプルがまだ無いようなので、その方面との遺伝的な関係の否定は出来ないが、少なくとも、アイヌと縄文人との遺伝的な関係が「有る」ことは分かっている。(勿論、日本人の他の一部と韓国人の一部も上とは異なる同じパターンを持っている事も判っている。いわば渡来系の日本人、ということになろう。)

土器の研究から、縄文土器は北海道から九州沖縄まで全国的に出ていて、縄文文化が日本列島にあまねく行われていた事が判っている。いわゆる本土では、紀元前3世紀頃から渡来人の文化の影響を受けて弥生式文化が始まったが、北海道では、「縄文文化」が続いていて「続縄文文化」と呼ばれる。それは時代が下ると「擦文文化」に変容する。この三つの文化は連続している、と考えられている。

さて、そして「アイヌ文化」の成立になるわけだが、少なくとも、海保嶺夫氏は『エゾの歴史』(講談社選書メチエ69)で「擦文文化」を「プレ・アイヌ文化」と呼ぶほどに、この二つの連続性を説いている。上と合わせれば北海道の文化の変遷は「縄文」「続縄文」「擦文」「アイヌ」と連続しているということになる。そして、それが分子人類学が教える所と合致しているわけだ。

こうして考えてみると「アイヌ文化は12(〜14)世紀に成立した」ということは、言い方が逆であって、今アイヌと呼ばれる人達の12(〜14)世紀頃以降の文化をもってアイヌ文化と呼ぶ、という定義をしたに過ぎないことが判る。今アイヌと呼ぶ人達の、これ以前の先祖が担っていた文化も「縄文、続縄文、擦文」文化なのだ。

アイヌ文化はこれ以前にはなかった、だからアイヌも居なかったしアイヌ語も列島では行われていなかった、とはとんでもない誤解であることが判ろう。そうならば、「日本」の国名は7世紀(?)に出来た、ということから、それ以前に日本列島に日本人は居なかった、日本語もなかった、ということが同じ論理になる。事実、そういう人も居ることは居るが、日本人という言葉の定義の問題だ。

「アイヌ文化は12(〜14)世紀に成立した」ということの正しい意味合いは上記の通りである、と考える。


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