歴史・言語方面の話題をどうぞ
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タイトル蝦夷
記事No2144
投稿日: 2015/01/10(Sat) 11:04
投稿者神奈備   <info@kamnavi.jp>
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 
『蝦夷とは誰か』松本建速著から

 p6 現在の青森県の古代の住民は「蝦夷」であったとされる。その人々は縄文時代以来そこに居住しており、北海道のアイヌ民族になる可能性もあったと言われる。『斉明紀』の阿倍比羅夫の北方遠征に蝦夷らの居住地として「津軽」が見えており、青森県以北であろう。彼らの言葉はアイヌ語へと連ならる言葉であったのか。そうだとすれば、津軽弁や南部弁にアイヌ語系統が言語が残っていそうだが、殆ど見いだせない。民俗や風習にも残っていない。

 質問 東北の地名にアイヌ語の痕跡が残っている事、しかしアイヌ語が話されていた痕跡がない事はいささか矛盾しそいうですが、僅かな数のアイヌとより多い蝦夷(倭人)が共存してい時代があり、地名はより先に住んでいたアイヌの名づけが採用されたが、言語や文化は倭人のが残ったとでも考えればいいのでしょうか。

タイトルRe: 蝦夷
記事No2146
投稿日: 2015/01/17(Sat) 17:53
投稿者大三元
神奈備さん こちらこそ今年もよろしくお願いします。
{インフルエンザで1週間ほど不稼働状態でご返事が遅れました}

> 津軽弁や南部弁にアイヌ語系統が言語が残っていそうだが、殆ど見いだせない。民俗や風習にも残っていない。

>  質問 東北の地名にアイヌ語の痕跡が残っている事、しかしアイヌ語が話されていた痕跡がない事はいささか矛盾しそいうですが、僅かな数のアイヌとより多い蝦夷(倭人)が共存してい時代があり、地名はより先に住んでいたアイヌの名づけが採用されたが、言語や文化は倭人のが残ったとでも考えればいいのでしょうか。

・一つのポイントは「津軽弁」などにアイヌ語の痕跡が残っているかどうかという視点:残っている必要がある、とも思えません。むしろもうちょっと独立的にマタギ言葉がアイヌ語だ(と断定して良いか?)であることを(地名とともに)東北地方でのアイヌ語の痕跡として理解して良いのではないかと思います。

・あとから来た人達が先住者の地名を利用する、というのは良く見られる現象だと思います。

タイトルRe^2: 蝦夷
記事No2147
投稿日: 2015/01/19(Mon) 20:01
投稿者神奈備   <info@kamnavi.jp>
> 神奈備さん こちらこそ今年もよろしくお願いします。
> {インフルエンザで1週間ほど不稼働状態でご返事が遅れました}
>
 ご快復、なによりです。

 冷静に考えれば、そうでしょうね。

 大三元さんとこは、人が冷静に戻れる場所ですね。今年もよろしくお願いいたします。

タイトルRe^3: 蝦夷
記事No2148
投稿日: 2015/01/20(Tue) 08:39
投稿者大三元
神奈備さん

はい、もう、どうもとにかく「静か」な当会議室ですから、沈思黙考にでもお役立て下さい。

ご質問を考えるにあたり、いわゆる米インディアン語と米語の関係も思っておりました。つまり米語(NY方言、そんなんあるんか?)に米インディアン語が入っているかどうか。それはそれで面白いテーマではありましょうが:
 入っていれば痕跡がある、として、米インディアン語がその周辺で行われていた証明になる・・・・ 痕跡がなければこの周辺で米インディアン語は行われていなかった??? これはどうにもオカシイ。。。

既に地名の多くが米インディアン語に因るものでありこの周辺に米インディアン語が行われていたことはハッキリしている。更にもっと実感、体験、歴史として米インディアンが居た、当然彼らの言語が行われていたことを知っている。

翻って日本の東北地方におけるアイヌ語については数多くのアイヌ語地名の存在それ自体がアイヌ語の「痕跡」でしょう。また、「日本後紀」によれば延暦18年(西暦799年)の時点でも「陸奥国新田郡百姓弓削部虎麻呂・妻丈部小広刀自女が久しく賊地に住みよく夷語を習い」しばしば虚言をもって夷俘の心を騒動した・・・・」と言う記録がありここの「夷語」をアイヌ語と考えて良いでしょう。

津軽にいたアイヌについてはこんなHPがありました:
http://www.mutusinpou.co.jp/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%81%A8%E9%A2%A8%E6%99%AF/2014/11/34027.html





> > 神奈備さん こちらこそ今年もよろしくお願いします。
> > {インフルエンザで1週間ほど不稼働状態でご返事が遅れました}
> >
>  ご快復、なによりです。
>
>  冷静に考えれば、そうでしょうね。
>
>  大三元さんとこは、人が冷静に戻れる場所ですね。今年もよろしくお願いいたします。

タイトルRe^4: 蝦夷
記事No2149
投稿日: 2015/01/21(Wed) 15:12
投稿者神奈備   <info@kamnavi.jp>
参照先http://kamnavi.jp/log/ugahituji.htm
大三元さん、わかりやすい解説、ありがとうございます。

で、以下のように考えてみました。

 東北北部には後にアイヌと呼ばれる人々が多分希薄な密度で居住していて、そのへ畿内王権に従わない人々(蝦夷)が多く移住して来て、共存することになった。それはアイヌ語地名が残っていることでシメされています。アイヌは狩猟採取を主にし、蝦夷は農耕も行っていたと思われます。人口は蝦夷が多く、彼らは蝦夷の言葉(ヤマト言葉)で十分生活出来、一部の人が交易などの必要からアイヌ語も習得したのたのでしょう。

タイトルRe^5: 蝦夷
記事No2150
投稿日: 2015/01/21(Wed) 19:35
投稿者大三元
神奈備さん

私の捉え方とは正反対みたいですね(^^)
私はWikiの「えみし」にあるような捉え方をしております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7

#東北北部には後にアイヌと呼ばれる人々が多分希薄な密度で居住していて、

何かに比較して相対的に「希薄」と考えて居られますか、それとも絶対値的に「希薄」? 参考:
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39815

(東)北進・移住してきた人達を「蝦夷」とする、という仮説は初めて見たような気がします。「蝦夷」=「後のアイヌ」とするのは、そんな単純じゃないよ、とも言われるような気がしますが、私はこちらの方向。

やはり全土に縄文人が居た、というのを初期状態(t=0:例えばニニギ光臨時点)にして、ニニギ一派が進駐、侵攻して来て、縄文人が山奥とか南北に分断された、というモデルが判りやすいです。

縄文人とは後にアイヌになった人達が多分大勢、他の(インドネシアとかポリネシアとか)人達は消えた(倭人に吸収された):こんなイメージを持ってます。

>  東北北部には後にアイヌと呼ばれる人々が多分希薄な密度で居住していて、そのへ畿内王権に従わない人々(蝦夷)が多く移住して来て、共存することになった。それはアイヌ語地名が残っていることでシメされています。アイヌは狩猟採取を主にし、蝦夷は農耕も行っていたと思われます。人口は蝦夷が多く、彼らは蝦夷の言葉(ヤマト言葉)で十分生活出来、一部の人が交易などの必要からアイヌ語も習得したのたのでしょう。

タイトルRe^6: 蝦夷
記事No2152
投稿日: 2015/01/22(Thu) 13:52
投稿者神奈備   <info@kamnavi.jp>
参照先http://kamnavi.jp/log/ugahituji.htm
 ありがとうございます。蝦夷観にはだいぶ差がありますね。

 岩波新書『平安京遷都』川尻秋生著 によりますと、エミシ(蝦夷)とは、律令国家が設定した異民俗を意味し。。」とあります。
 8世紀の初めには、東北地方に住む「まつろわぬ」人々の総称だったと思われます。倭人(日本語をしゃべる人々)に加えて、アイヌ(縄文語をしゃべる人々)が混在していたのでしょう。アイヌは狩猟採取の民で、倭人はそれに加えて農耕をしていたので、単位面積あたりの人口は倭人のほうが多かったといえると思います。
 アイヌの中に倭人が入ってきて、その人口が多くなり、その地域も自然に日本語が話されるようになり、地名は先住民のアイヌ地名が残ったと思われます。

 高橋克彦氏は、東北の倭人は出雲(亀嵩:砂の器の舞台)から移住したのではないかとの見解を示されています。なにも亀嵩に限定する必要はなく、昔の出雲は全体的にヅーヅー弁だったとは、ドンタクさん曰わく、テレビの普及で標準語化してしまったとのこと。なお、ドンタクさん、大三元さんの掲示板の更新がしばらくなかったので、心配されていました。

 国譲りなどの際、東北まで行ったのかもしれません。

 ご指導ありがとうございました。

タイトルRe^7: 蝦夷
記事No2153
投稿日: 2015/01/22(Thu) 14:59
投稿者大三元
神奈備さん

●「エミシ(蝦夷)とは、律令国家が設定した異民俗を意味し。。」

●8世紀の初めには、東北地方に住む「まつろわぬ」人々の総称だったと思われます。倭人(日本語をしゃべる人々)に加えて、アイヌ(縄文語をしゃべる人々)が混在していたのでしょう。

は違うことを表していますね。片や「異民族」片や「和人とアイヌの混在」。

私の考え:和人が東北地方の異俗・異語の人の存在を初めて知ったときにその人達を指し示す名詞が必要になる。それを「エミシ」とした。これが原点なんじゃないでしょうか。

もっとも:中央政府がエミシの存在を知ったときには既に民間レベルではかなり和人が東北地方に侵入していた、ってこともあったりして、中央政府としてはまとめてエミシと言ったのだ、とも言えなくもないけど。

後に、エミシの一部はアイヌになり、一部は(混血などを通じて)和人になった、ということは言えると思いますが、エミシのオリジナルな構成要素に和人も混在していた、というパラダイムはどうなのかなぁ。

>  アイヌの中に倭人が入ってきて、その人口が多くなり、その地域も自然に日本語が話されるようになり、地名は先住民のアイヌ地名が残ったと思われます。

これはその通りだと思います。

>  高橋克彦氏は、東北の倭人は出雲(亀嵩:砂の器の舞台)から移住したのではないかとの見解を示されています。なにも亀嵩に限定する必要はなく、昔の出雲は全体的にヅーヅー弁だったとは、ドンタクさん曰わく、テレビの普及で標準語化してしまったとのこと。

まぁ千年とか二千年前のことを考えるのに百年程度前の話を根拠にしてもしょうがない、というか、信を置ききれませんね。むしろ「安日彦」伝説でも追いかけるのが面白いかも。
 私は琵琶湖の「竹生島」にある「都久夫須麻神社」が今東北で行われているズーズー弁に近いのではないかと思っています。(チクブシマ→ツクブスマ)


> なお、ドンタクさん、大三元さんの掲示板の更新がしばらくなかったので、心配されていました。

恐れ入ります。話し相手が居らず(トホホホ)オトナシクしていました。

>  国譲りなどの際、東北まで行ったのかもしれません。

上記「安日彦」伝説でしょうかね。秋田の物部文書も勉強せねばなりませんね。未着手。

タイトルRe^2: 蝦夷
記事No2166
投稿日: 2016/10/17(Mon) 14:05
投稿者今井より
参照先http://yorihime3.net/jisya/onanji.html
言語ではありませんが、当地には「蝦夷」が配流されたと思われる
伝承があります。「大穴持神社」がそれです。
史資料でも出てくれば嬉しいですが。。
一応お知らせまで

タイトルRe^3: 蝦夷
記事No2167
投稿日: 2016/10/17(Mon) 21:00
投稿者大三元
今井よりさん

お知らせ有り難うございます。
なかなか信の置ける史料がなく、推理が多くなりますね。
従ってその推理がどれほど可能性の高いものか、という評価をすることになるのでしょうね。

タイトルRe^4: 蝦夷
記事No2168
投稿日: 2016/10/18(Tue) 08:18
投稿者今井より
参照先http://yorihime3.net/
> 今井よりさん
>
> お知らせ有り難うございます。
> なかなか信の置ける史料がなく、推理が多くなりますね。
> 従ってその推理がどれほど可能性の高いものか、という評価をすることになるのでしょうね。

信憑性を増大するには、史資料の精査と足稼ぎでしょうか。

昔、地元の隼人の事を知りたくて、
大学の先生方が主催される「隼人研究会」に参加。

でも頂いた史料が良く見えないの。
疾病の後遺症で、失語症は回復したけど
手足の痺れや視力の低下は。。
特に視力は、映像が湾曲して見ずらいの。

史料は、スキャナーで取り込んで
パソコンで拡大して読んでたわ。。
これが結構大変な労力。。

そこでどこか資料がないかと探したら、、
このサイトに辿り着きました。。
有難かったです。

ページをダウンロードして
暇を見て読んでました。
その後、iPadが出て真っ先に飛びついたのは
言うまでもありません。
ベッドで寝ながら拡大して読んでました。

まさに私の図書館でした。


それから暫くして、京都大学や早稲田大学の図書館でも
公開しているのを知りました。
今はあちこちでPDFで提供されているので助かります。

また、あの頃の感激を思い起こしながら
史資料の精査に精進したいと存じます。

タイトルRe^5: 蝦夷
記事No2169
投稿日: 2016/10/18(Tue) 13:42
投稿者大三元
今井よりさん

ご不自由と戦いながらの研究、頭が下がります。
お役に立つ情報があったようで嬉しいです。

タイトルRe^6: 蝦夷
記事No2170
投稿日: 2016/10/19(Wed) 05:07
投稿者今井より
参照先http://yorihime3.net/

大三元さん、おはようございます。
このサイトがあればこそです。
資料集めで奔走してる頃は、
非常にありがたかったです。
唯一の蓄積されたいつでも閲覧できるデーターでした。
他にありませんでしたから、余計。。

地元の史資料を閲覧して
「蝦夷の日向配流」のことを知りました。
蝦夷研究の大学の先生方とも数年前来鹿された折
いろいろお話を伺いました。(鈴木拓也ご一行)

暫く頓挫状態ですが、そろそろ再開したいなと
この盛夏、その伝承の鎮守「大穴持神社」に
久々に参拝し、また史資料収集に励んでいます。