タイトル | : 『伊予国風土記』逸文 |
記事No | : 2180 |
投稿日 | : 2017/05/04(Thu) 17:12 |
投稿者 | : 大三元 |
『伊予国風土記』逸文 大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。
原文(岩波日本古典文学大系): 御嶋 伊豫國風土記曰 乎知郡 御嶋 坐神御名 大山積神、一名和多志大神也 是神者 所顕難波高津宮御宇天皇御世 此神自百濟國度来坐 而津國御嶋坐 云々 謂御嶋者 津國御嶋名也
伊豫の國の風土記に曰はく、乎知の郡 御嶋 坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇【仁徳天皇】の御世に顕れましき。此神、百濟の國より度り来まして、津の國【摂津】の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。
関連しそうな諸点: ●淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。樟葉の渡し(高浜の渡し)、下島の渡し(鵜殿の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、枚方の渡し(大塚の渡し)、出口の渡し(三島江の渡し)で対岸と結ばれていたという。 ●枚方市に百濟王神社あり。Wikiより: 百済滅亡【660】後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。 ●「百濟」の「濟」字は「渡し」とも読む ●和氏:Wikiより: 百済の第25代王・武寧王を祖と称した、百済系渡来氏族 もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘・新笠が入侍していた白壁王(光仁天皇)が即位したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子には高野朝臣姓を賜与された
上記に鑑みての推論: ・伊豫國風土記逸文の「和多志大神」というのは淀川の渡船に係わる神である ・百濟から来た、というのは枚方の百濟神社周辺のこと ・「濟」が「渡し」をも意味するのも上記伝承形成に一役買っていよう。 この推論が成り立つには: ・淀川の三島にあった三島神社の歴史は「百済王氏の居館を難波から河内に移した」前後よりも大きくは遡らないものだろう。ざっと8世紀なかごろ。 ・三島と大山積(祇)のつながりはもっと古い、と措定する。
付随: 三島溝咋の娘である活玉依媛が生んだ子は: 媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)であるが 先代旧事本紀では 天日方奇日方命 もあると伝える。 「日方」は「ひかた」と読まれてきているが「日」は二日、三日などの「か」、「方」は四方八方などの「も」とも読むことが出来て「日方」で「かも」があぶり出せるがどうだろうか。 (三島溝咋と賀茂建角身などが同一人物であろうとする推論のさらなる補強になろうか、ということ)
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