歴史・言語方面の話題をどうぞ
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新着記事

タイトル閉鎖します
記事No2192   [関連記事]
投稿日: 2020/02/02(Sun) 10:31
投稿者dai3gen
長らくお話し合いを頂きありがとうございました。
これにて、ここは閉鎖致します。
新BBSをご利用下さい。

タイトルアタック
記事No2188   [関連記事]
投稿日: 2018/05/26(Sat) 16:34
投稿者ペギラ
参照先http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000085401
こんなサイトを見つけました。
おもわず、ご報告に。

あっ、おひさしぶりに書き込みです。(笑

レファレンス共同データベース
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000085401

<引用>
回答
(Answer)
方言に関する資料を調査。

『沖縄語辞典』(大蔵省印刷局、2001年)には該当語句なし。

『琉球語辞典』(半田 一郎、大学書林、1999年)
 p37 発音記号▽ataku「アタク」は「青蛙」の意とある。
 
『石垣方言辞典 本文編』(宮城 信勇、沖縄タイムス社、2003年)
 p37 「アタグ」は「海鵜」の意とある。

『石垣方言語彙一覧』(宮城 信勇、大阪学院大学情報学部、2002年)
 p33に海鵜(ウミウ)の音声記号あり。「アタグ」と読める。

『八重山語彙』(宮良 當壯、東洋文庫、1930年)
 甲篇p9 「アタク」は「う、しまつどり(小濱)」の意とある。「宮古島にては、アタフと云ふ」との記述あり。また、同義語として石垣・西表・與那国の「アタグ」、鳩間の「アダク」も掲載されている。

『精選 八重山古典民謡集 2』(當山 善堂、ティガネシア、2009年)
 p148〜155 「まるま盆山節」三番の歌詞に「海鵜(あたぐ)」が出てくる。

タイトルRe: 万葉集#3553
記事No2187   [関連記事]
投稿日: 2017/11/25(Sat) 14:23
投稿者大三元
許弖(こて):凝りて と解くもう一つの傍証として:

『東国方言の歴史を考える』
金田一 春彦

〔注4〕
(前略)
『平家物語』の「宮の最期」という章の源三位頼政が自
害する条では、「ウツ伏シザマニ貫力レテ」とあるべきとこ
ろを岩波大系本などに「ウツプサマニツラヌカテ」と書い
ている。「ツラヌカテ」は、平曲では「ツラヌカッテ」と唱
える。ここは当時の東国方言をとり入れて効果をあげよう
としたものではないか。「ウツプサマ」もほんとうは「ウ
ツプッサマ」(あるいは「ウツプッツァマ」?)という、
当時の東国方言流に唱えるはずのところかもしれない。

http://db3.ninjal.ac.jp/SJL/getpdf.php?number=0690400500cs

タイトルRe: 倭の五王 のうち・・・
記事No2186   [関連記事]
投稿日: 2017/05/16(Tue) 19:05
投稿者大三元
更に「済」ですがやまとことばでは「わたり、わたし」とも読み意味は「渡」です。
「和多志大神」(伊豫風土記:大山津見のこと)がここに嵌る、と云いたいけどなかなかきつそう。「三島」つながりで百舌鳥耳原地区との関連を感じている。

タイトル倭の五王 のうち・・・
記事No2185   [関連記事]
投稿日: 2017/05/16(Tue) 19:02
投稿者大三元
讃が仁徳 珍が菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ) という説がありますね。
讃(サン)が「ササギ」の「サ(サ)」を表している、というのも根拠(いいがかり)の一つのようですが、
珍については仁徳の弟ということだけが根拠のようです。

ここで私は「珍」は倭語では「うづ」であることもいいがかりに加えられると思います。
菟道 は「うぢ」ですから当たらずとも遠からず。。。

タイトルRe: 『伊予国風土記』逸文
記事No2181   [関連記事]
投稿日: 2017/05/09(Tue) 16:14
投稿者神奈備
 「それがどうした」という話ですので、返信は不要です。今は手元にありませんが『三島湟咋』と言う本を読んだ中に、戦国時代のこと、ある武将が近くの三島鴨神社を訪れた際、「鴨の三島か、三島の鴨か」と言ったと伝わっているそうです。
 この意味する所はよくわかりませんが、著者の主張は三島とは大和、筑紫、出雲の三国で、それぞれ邪馬台国であったとのことと記憶しております。
 

タイトル『伊予国風土記』逸文
記事No2180   [関連記事]
投稿日: 2017/05/04(Thu) 17:12
投稿者大三元
『伊予国風土記』逸文
大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。

原文(岩波日本古典文学大系):
御嶋
伊豫國風土記曰 乎知郡 御嶋 坐神御名 大山積神、一名和多志大神也 是神者 所顕難波高津宮御宇天皇御世 此神自百濟國度来坐 而津國御嶋坐 云々 謂御嶋者 津國御嶋名也

伊豫の國の風土記に曰はく、乎知の郡 御嶋 坐す神の御名は大山積の神、一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇【仁徳天皇】の御世に顕れましき。此神、百濟の國より度り来まして、津の國【摂津】の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。

関連しそうな諸点:
●淀川の対岸との交通は、1930年に(旧)枚方大橋が開通するまでは、渡し舟が唯一の交通機関だった。樟葉の渡し(高浜の渡し)、下島の渡し(鵜殿の渡し)、前島の渡し、磯島の渡し、枚方の渡し(大塚の渡し)、出口の渡し(三島江の渡し)で対岸と結ばれていたという。
●枚方市に百濟王神社あり。Wikiより:
百済滅亡【660】後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた。功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移した。当地には氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。
●「百濟」の「濟」字は「渡し」とも読む
●和氏:Wikiより:
百済の第25代王・武寧王を祖と称した、百済系渡来氏族
もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘・新笠が入侍していた白壁王(光仁天皇)が即位したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子には高野朝臣姓を賜与された

上記に鑑みての推論:
・伊豫國風土記逸文の「和多志大神」というのは淀川の渡船に係わる神である
・百濟から来た、というのは枚方の百濟神社周辺のこと
・「濟」が「渡し」をも意味するのも上記伝承形成に一役買っていよう。
この推論が成り立つには:
・淀川の三島にあった三島神社の歴史は「百済王氏の居館を難波から河内に移した」前後よりも大きくは遡らないものだろう。ざっと8世紀なかごろ。
・三島と大山積(祇)のつながりはもっと古い、と措定する。

付随:
三島溝咋の娘である活玉依媛が生んだ子は:
 媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)であるが 先代旧事本紀では
 天日方奇日方命 もあると伝える。
 「日方」は「ひかた」と読まれてきているが「日」は二日、三日などの「か」、「方」は四方八方などの「も」とも読むことが出来て「日方」で「かも」があぶり出せるがどうだろうか。
(三島溝咋と賀茂建角身などが同一人物であろうとする推論のさらなる補強になろうか、ということ)

タイトルRe^2: みそさざい 出雲系図との関連
記事No2179   [関連記事]
投稿日: 2017/04/13(Thu) 10:13
投稿者大三元
「古事記に出てくる出雲の神様」として
http://www.dai3gen.net/izumo.htm にあげた表から抜粋する。

  本人         =配偶者   ←配偶者の祖
9.速甕多気佐波夜遅奴美神=前玉比賣  ←天之甕主神
10.甕主日子神     =比那良志毘賣←淤加美神

ここで「甕」は「ミカ」と読んでいるが「タケミカヅチ」のことを
『日本書紀』では「武甕槌」とも書き、
『古事記』では「建御雷之男神」とも「建御雷神」とも用字する。
さすればこの出雲系譜の「甕」も「雷」に置き換え可能であろう。

        本人     =配偶者   ←配偶者の祖
9.速雷多気佐波夜遅奴美神=前玉比賣  ←天之雷主神
10.雷主日子神     =比那良志毘賣←淤加美神
こう置き換えて作ってみると思い起こす事例がある。
山城国風土記(加茂社)のことである。
この伝承を表に示すと次のようになる。
  
 本人    =配偶者 ←配偶者の祖
火雷神・丹塗矢=玉依日賣←賀茂建角身命
 子:可茂別雷命

ここで出雲の「速雷多気佐波夜遅奴美神」と
山城の「賀茂建角身命」にある「多気(たけ)」、
「遅奴美(ちぬみ)」が「建(たけ)」、「角身(つぬみ)」と
共通乃至類似していることに気が付く。
この人たちは出雲では「本人」だが
山城では「配偶者の祖」と伝えられている、という異同はある。
「配偶者」に関してもいずれにも「玉」が入っている。
ついでに云えば出雲系譜11代に:
11.多比理岐志麻流美神=活玉前玉比賣←比比羅木之其花麻豆美神
とあり、配偶者名に「活玉」が現れる。山城では単に「玉依」であるが、
これと並行していると考えている「古事記」や「先代旧事本紀」では
「陶津耳命女活玉依毘賣」や「三島溝杭女活玉依姫」のように
「活玉依」と伝えられている。

 伝承途中で名前や系図に乱れが入り込むことを考えれば、登場人物が
これだけ共通していそうなことには強く興味を惹かれる。

タイトルRe: みそさざい
記事No2178   [関連記事]
投稿日: 2017/03/28(Tue) 16:50
投稿者大三元
百舌鳥古墳群の南南東8kmほどに「陶荒田神社」がある。「太田田根子」の居所とされる。崇神紀に依れば「太田田根子」の父は大物主大神、母は「活玉依媛」。「活玉依媛」の親は「陶津耳」とも「奇日方天日方建茅渟祇」とも云う。
「活玉依媛」と云えば他でもお目に掛かった名前であり血縁関係を調べてみる。
以下数行に於いて「→」は親子関係を、「=」は婚姻関係を表している。
古事記では:陶津耳命→活玉依毘賣=大物主神→櫛御方命
先代旧事本紀では:三島溝杭→活玉依姫=都味歯八重事代主神→天日方奇日方命
更に山城風土記逸文賀茂社では:賀茂建角身命→玉依日賣=火雷神(丹塗矢)→可茂別雷命 とある。表にしてみると次のようになる。

出典    母方祖父       母    父         本人
崇神紀   陶津耳        活玉依媛  大物主大神    太田田根子
崇神紀   奇日方天日方建茅渟祇 活玉依媛  大物主大神    太田田根子
古事記   陶津耳命       活玉依毘賣 大物主神     櫛御方命
旧事本紀  三島溝杭       活玉依姫 都味歯八重事代主神 天日方奇日方命
山城風土記 賀茂建角身命     玉依日賣  火雷神(丹塗矢) 可茂別雷命

山城風土記の伝承では「玉依日賣」で「活」を欠くが、母方祖父の名前の一部「建・角身」(たけ・つぬみ)が崇神紀の云う「建・茅渟祇」(たけ・ちぬつみ)に近いので同語と判定し、従い、ここの「玉依日賣」も「活玉依日賣」と同源の伝承と見た。(なお、「角身」の「み」(乙類)と「祇」の「み」(甲類)では甲乙の違いがある。)
 山王総本宮 日吉大社では「大山咋神と妃神 鴨玉依姫神の結婚を再現する儀式」が行われている。つまり上表で云えば「父」の欄に「大山咋神」が来るバージョンである。

上表すべての「(活)玉依」ヒメが同体ならばその父も異名にかかわらず同体であるはずだ。つまり「陶津耳」「奇日方天日方建茅渟祇」「陶津耳命」「三島溝杭」「賀茂建角身命」は同一人物と判定する。

この考えの基本は既に2001年にHPで掲げていたが
http://www.dai3gen.net/kamo04.htm
今回敷衍、書き直しに当たっては「三島鴨神社史」(三島鴨神社2006発行)を参照することが出来た。この本のp157に天坊幸彦氏の説として「三島溝咋耳命は三島溝咋に於て、鴨建津之身命は山城鴨に於て、陶津身命は陶に於ての呼称にていづれも同一の神なり」と引かれていた。先達が居られた!
(天坊氏は継体天皇陵が茶臼山古墳ではなく今城塚古墳である、と指摘した方)


かくして
「三島溝杭」は陶邑に居住していたか深い関係を持ち、百舌鳥耳原の命名説話に関連し、「みさんざい」に関わりがあるのではないか、と考えている。

付:
1.「陶荒田神社」に関しては
http://www.y-tohara.com/izumi-suearata-11.html
が詳しく、参考になる。
このサイトでは同社に「火雷神社」が合祀されているものの祭神が不明、ないしは「別雷神」「火雷神」という説もあるがその動機が不明である、との「大阪府神社史資料」を紹介している。上記私説をお読み頂いた方には「陶邑・陶津耳・賀茂建角身命・玉依日賣・火雷神(丹塗矢)・加茂別雷命」が順当に回路を形成していることを観じられるであろう。

2.「陶」(すゑ)とは「鬘」(かつら)のことである、と和名類聚抄にある。
http://www.dai3gen.net/kamo04.htm
葛城出自の鴨がこの地(茅渟)に来て「陶」邑と洒落たことでもあろうか。
そこで作られた土器が陶器(すゑ器):瀬戸以外で作られても瀬戸物・・・

タイトルみそさざい
記事No2176   [関連記事]
投稿日: 2017/03/28(Tue) 09:59
投稿者大三元
かねてより 百舌鳥古墳群 と 三島溝咋 の間に関係がありそうだと思っている。
http://www.dai3gen.net/sasaki.htm
http://www.dai3gen.net/kamo04.htm

主たるキーワードは:
・「ミサンザイ」は「ミササキ・御陵」
・仁徳天皇の名は「大雀」「大鷦鷯」と書かれ「オホササキ」と読む
・「ササキ」は今「みそさざい」という小鳥のこと
・「みそさざい」の異名、別名、方言に「みそくいどり、はかとり、みそさんざい、みそなめどり、みそつつき、みそきち、みそさんざに、さざい、さざえ」などがある。
-「みそさんざい」は「ミサンザイ」と殆ど違わない。「みそくいどり」はまさに「溝咋」
-「はかとり」 墓鳥 という意識だろう。

・仁徳天皇が陵地を定めて陵を建築したとき鹿が走り込んできて倒れて死んだ、耳から百舌鳥が飛び出た、耳中は咋い(食い)割け剥げていた。それでその地を百舌鳥耳原という。ここから「モズ食い耳」←→「ミゾ・クヒ・ミミ」と発想したものだ。この話は「溝咋耳」から連想して作られた地名説話か、あるいは、逆に「溝咋耳」という名前はこういう民話に因んでいるものか。

 この点に関して「みそさざいが猪とか熊の耳に飛び込みそれを倒す」という民話のあることを知った。柳田国男が播磨で収集した話、おそらく独立に岩手の話としてネット掲載。他にもありそうだ。
「百舌鳥とみそさざいは違うじゃないか」とも思うがいずれであっても、動物の耳に入る、というモチーフができる程度の大きさであるからどちらでも良いだろう。(また「カヤグキ」という語が 百舌鳥をも みそさざいをも指すことも両者を峻別する必要のないことを示していよう。更に「もず」も「みぞ」も M_Z_ という音構成で母音が交替しているだけ、というのも興味を引く。)
 欧州では「みそさざい」は「鳥の王様」である(グリム童話「みそさざいと熊」)が、一方「森の王に立候補したミソサザイが、森の王者イノシシの耳の中に飛び込んで、見事にイノシシを倒したものの、だれも小さなミソサザイを森の王とは認めなかったという寓話が有名である。」ともWikiには書いてある(この後半の話は私は未確認)。
 これらを集積した「みそさざい参考資料」をUPした:http://www.dai3gen.net/misosazai.htm

この地、百舌鳥耳原 に 三島溝咋 の痕跡を見ることが出来ると面白いことになる。

(続く)