寛大なる当会の規約第4条により参加させて頂いております一読者です。

ご他聞に漏れず「日本人のルーツ」への関心からこの方面での諸先生の御著書を拝見し勉強しております。ここに、読者、オブザーバー的立場からの所感を述べたいと存じます。

 

学際研究

申すまでもなく「日本人のルーツ」は一つの学問領域だけで究められるはずもなく学際研究の必要が叫ばれております。しかしその場合、大抵、考古学、歴史、言語学などという分子人類学の外側の学問との連携が指向されています。それも良いのですが、人類学内部での学際研究というのを是非お願いしたい、と思うのです。

具体例を挙げますと、DNAでは北方系統の人たちと同じ系統樹に入った人のHLAは北方的なのか、とか、Gm血液型遺伝子で赤(ab3st)を持っている人が果たして南方系の人たちと同じDNAクラスターに入るのか、耳垢の柔らかい人が入るDNAクラスターは顕著に弁別できるのか、というようなことです。

この視点からは中妻貝塚の血縁関係分析で、DNAと歯冠計測値それぞれの分析結果の比較がなされていたのが、人類学「内部」の学際研究として注目されます。

分子人類学的手法のそれぞれが異なるサンプルを対象にしているのでは結論が異なるのは一種当然であり、言葉が悪いですが、群盲象をなでる、であります。

 

一事が万事の疑問

ある縄文人骨のMtDNA(全塩基の1%ほど)がバイカル湖周辺の今の住民のものと一致した。すわ、日本人のルーツはバイカル湖にあり、という論調がある。そのような短兵急な結論めいた言説は学問の進展を阻害するものでありましょう。

一万年の期間に生まれて死んだ縄文人は何千万人にもなるでありましょう。そのうちのせいぜい二千体(一万分の一、0.01%)でしょうか、が今に残存して、そのうちの極く一部のDNAが調べられ、それもMtDNA16000余塩基の1%ほどが照合されているに過ぎない、と考えますと、まだまだ緒についたばかりなのではないでしょうか。少ない事例から、何かがある、という議論はできても、何かが無い、とか、定量的な何かが多い・少ないという議論はまだ無理なのではないでしょうか。

 

統計的配慮

選挙の当確予想、内閣支持率などのサンプル数は約1000と聞きます。これはどうやら答えの(分散の)予想がついていることと、ランダム抽出に配慮がなされているからこの程度のサンプル数で良いのだ、ということのようです。

しかし日本人(縄文から現代までの累積)を分類するに際して幾つかのカテゴリーに分類するとして、それぞれのカテゴリーの頻度分散は不明なわけです。それを知ろうとするわけですから。一体幾つくらいのサンプルが必要なのか、是非ともお考え頂きたい、恐らく、それに対して、まだまだ僅かな例しか語れないのではないか。もしそうなら、そういうことを正直に仰って頂きたい。

また、分子人類学が、恐らく病理の研究との関連から発達したことにもよるのでしょう、拝見しているデータが有病者とその家族のもののようで、すなわちサンプリングに偏りがありそうだ、また、縄文人骨は偶然で見つかるわけで雑駁に云って石灰質の多い土壌に住んでいた人のデータですから、とても正規分布からランダム抽出したサンプルとは言えないでしょう。

DNAの場合ですと、120あまりのサンプルが60余りのパターンを有していた、すなわち、同じパターンは2人ほどしか共有していない、というデータがあります。まさか、今の日本人が6000万種類のパターンに分かれるとも思いませんが、少なくとも万を数えるのでありましょう。そのうち、いくつのパターンが同定されてルーツ論が展開されているのでしょうか。

一つ一つデータを積み上げて行かれる先生方の御努力に頭を下げる一方、ルーツ論展開のためになさねばならぬことの全貌に対してのご配慮を望むものです。

 

パターン一致の意味

ある縄文人骨とバイカル湖周辺住民のDNAが一致した(仮にMtDNAの1%だとしても)ということの意味の広さ深さも啓蒙して頂きたい。すなわち、このことから、縄文人全体の元郷がバイカル湖だ、とはならない、ということを。「その」縄文人と、「その」ブリヤートモンゴルは「過去」に共通の母に遡りうる、というに過ぎないことを。その共通の母が何世代前なのかも、その所在地も特定できないことを。勿論、他の知見をもとになんらかの推定が出来る場合もありましょうが。

 

難問

分子人類学は一方では、例えば日本人のルーツ探求に有力なツールと考えられ、他方では、個人個人の識別が出来るように云われます。(最近ではフセイン元大統領もDNA鑑定で本人と特定したなどと報道されていました。)

研究が進めば進むほど(データが増えれば増えるほど)まさに何人であれ、何民族であれ、それらの集団がいかに遺伝的に多様であるか、ということをいや増しに証して行くのでありましょう。

そうなると、その集団のルーツを問う、というのは一体どういうことなのか

民族の定義の一部に同じ言語、同じ習慣、という要件があったと思います。分子人類学から見ると、同じクラスターに入っていても異民族だし、同民族でも多数のクラスターに分かれる。

MtDNAならある特定個人の母系ルーツをたどることができる、これは判る。しかし「日本人のルーツ」とは、一体何がテーマなのか、その定義から必要ではないのでしょうか。

 

 


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