アイヌ語基礎語彙への提言

orig: 2000/01/19
rev1: 2000/01/26

「日本語の誕生」安本美典・本多正久共著(大修館)に掲載されているアイヌ語の基礎語彙について検討したところを示す。同書p358から「日本語、朝鮮語、アイヌ語の基礎語彙表」があり、そこにはスワデシュが提案した200の基礎語彙が、番号、項目(英語)、東京方言、上古語、首里方言、中期朝鮮語、アイヌ語、と7列の表になっている。
同書では諸言語間の距離を測るのに「第一子音」が類似しているか否かを判定している。欲張って、それ以上に、第一母音も第二子音、第二母音も類似してなければならない、としてしまうと、そういう語彙ペアは殆ど無くなってしまうので第一子音の一致を見ることにしたのだろう。
第一子音のみを観察する、という粗っぽそうな方法だが、それでも直感的に近そうな言語間では関連が高く、日英のように関係がないであろう言語間ではチャント関連が低いという測定結果が出ており、第一子音のみの合致頻度を見ることも、ある程度の有効性があるようで、やむを得ない方法か、と思われる。
勿論、第一子音に頼らねばならない、ということが意味することは、複数音節の対応など、とても望めない、ということであり、即ち日韓アイヌ語は、それぞれに、それほど、離れている、ということである。著者はこれら三言語が同一の祖語から6千年以上前に分離している、と推定している。
私は、日本語を単一言語と捉えて、その祖語をある単一の言語に求めることには大きな疑問を持っているが、本稿では、それに関わらず、上記書の第一子音比較の方法に就いて述べている。
また、第一子音が類似してるかどうかは、第一文字の同否で判定される訳だが、例えばtとchは同じと考える、というような類似音グループを「コントロール・カード」と呼ばれるものに定義して、それによって変換して判定している。
さて、第一子音を比較する対象として基礎語彙表が造られている。即ち同書の論立ての最も基本部分に相当するスタートラインである。そこに挙げられたアイヌ語彙について、聊か疑義があるので下記にまとめた。

No.002 ashes 上古:Hai アイヌ:uyna
「灰」を意味する日本語方言にウナ、ヨナなどがある。これを採用すれば、アイヌ語uynaとの近隣性は甚だ高い。
No.011 breast 上古:mune アイヌ:penram
penram は pen-ram と分析できる複合語であり、「下の・胸」が原義で「鳩尾(みぞおち)」のことである。人により地方により、この語を「胸」に使うこともあろうが、語の構成を見ると、第一子音は「下の」という意味を作っている語のものであり、対比検討すべきアイヌ語は ram であろう。いずれにしても「合致しない」ことにはなるが。
No.013 cloud 上古:kumo アイヌ:niskur
この書が行っているのは「第一子音」の比較であるので、この二語は「合致しない」と判定された筈である。

さて、このアイヌ語彙は実は nis-kur と分析される複合語であり、その原義は「天・影」である。天の影、空の陰、ということで「雲」の意味になっているものである。服部四郎が既に指摘しているように、黒・暗い・雲などに共通な ku(r) を見れば、このNo.13のアイヌ語には kur を宛てて「合致する」と判定すべきであろう。

なお、この項目の中期朝鮮語は kurum と挙げられており、日韓アイヌと三言語が共通な「第一子音」を有する。

No.024 eye 上古:me アイヌ:sik
第一子音の比較では「合致しない」となった筈である。確かに「目」を意味するアイヌ語は sik であるが、in-kar と nu-kar が「見る」、であり、ここの kar とは「〜を作用する」という義であり、前半は「目」に関わる語根のような性格をもった語彙である。ここのアイヌ語に nu を採用し、m と n は同類という「コントロールカード」を定義すれば、「合致する」という判定になる筈である。なお、中期朝鮮語は nun としてあり、著者が対照したアイヌ語 sik(i) とは「合致しない」がアイヌ語に nu を採用すれば、逆の判定になる。
No.039 heart 上古:kokoro/kimo アイヌ:sampe
第一子音は「合致しない」。アイヌ語には sampeの他にramという語もあり、これも「心」と「心臓」の両方を表す。ram に置き換えても上古日本語とは合致しない。但し、ram-at 心・紐 を「魂」の「タマ」と関連付ける説もあり「コントロールカード」で日本語の第一には現われないrをtと同類と扱うように定義した場合に比較作業の全容がどうなるのか、興味深い所である。

中期朝鮮語は nyantong と掲げられており(通常のフォントにない文字もあるので、通常の文字に置き換えている)、コントロールカードに n=r を定義すると、この朝鮮語は、アイヌ語のsampeとは合致しないが、ram とは合致することになる。

No.049 louse 上古:sirami アイヌ:onneki
即ち、第一子音は「合致しない」。ここで難しそうなのは方言の扱いであろう。比較的近年に行われている日本方言でシラミのことをキザシ、キザサなどとも言い、10世紀に編纂された倭名類聚鈔にはシラミの子を「木佐々」というとある。更に大隅風土記に溯れば「キサシム」という俗語もあった。

一方アイヌ語であげられているonnekiは、onne-ki と分析し「大きい(原義=年寄りの)・頭虱」である。これで、第一子音を比較したのでは「虱」と「大きい(年寄りの)」という意味する語彙を比較してしまっていることになる。虱は ki または rasi という。

つまり、上古:kisa-- アイヌ:ki を対比すれば第一子音は「合致する」ことになる。上古語に採用する語彙の収集範囲をどこまで広げるか、或いは各地方言をどこまで採用するかということが比較対象とする語彙の選択の際の問題であろう。

また、確かにアイヌ語 onne-ki がシラミの意味ではあるものの、その語構成を吟味しないと上記のように意味の違う語の第一子音を比較することになる。

No.054 mountain 上古:yama アイヌ:nupuri
上古語にyamaがあるのは良いとしても山名に「森」が多い(特に四国、東北)ことも配慮しておきたい。それは本書も中期朝鮮語にmoiを上げていることもあるし、幌別方言で山頂をmoyというから(知里真志保・アイヌ語地名小辞典)である。そしてその moy は muy と同源であるとし、muy には「箕」の他に「山頂=kimuy」を上げている。つまり上古語にmoriを採用することが出来れば日韓アイヌ三言語に亘って共通性が見られることになる。
No.065 river 上古:kaHa アイヌ:pet
河川を意味するアイヌ語には nay もあるが、それでも第一子音は「合致しない」。この語に関して中期朝鮮語は挙げられていない。熊津(コム・ナリ)とか阿利那礼(アリ・ナレ)に見られる「ナリ、ナレ」を河川の意味と見ないのであろうか、それとも「中期」ではないからか。「ナリ」などを採用すればアイヌ語 nay とは第一子音合致以上の関連が窺えることになる。
No.068 round 上古:maro- アイヌ:sikannatki
確かにそういうアイヌ語は辞書で確認できる。しかしこの語の構成を田村すず子は、sikari-no-atki か、と解いている。即ち第一部分は、sikariであろう。そして、それはまた更に分析されて、si-kari 自分・を回る、という原義が考えられている。つまるところ、このアイヌ語彙の核は kari 回る、である。第一子音の比較はいずれにせよ「合致しない」が対比すべきアイヌ語語彙はsikannatkiではなく kari であろう。
No.088 tongue 上古:sita アイヌ:parunpe
このアイヌ語は複合語であり、その原義は par-un-pe と解析されて「口・にある・もの」である。著者は、つまり、日本語「舌」とアイヌ語「口」の第一音を比較していることになる。美幌方言に残っている aw の方が独立語でありこれを採用すべきではなかろうか。いずれにしても第一子音の不合致という結論は変わらないが。
No.093 warm 上古:atatakesi アイヌ:sirpopke
アイヌ語で気象、周辺の様子を表現するときに sir を使う。sir-popke も「辺りが・暖かい」の意味である。他にも、 sir-chuk 秋になる、sir-ehanke 近くである、sir-meman 涼しい、などがある。つまり atatakesi の第一子音と sir-popke の第一子音を比較することは、日本語の「暖かい」とアイヌ語の「辺りが」を比較してしまっていることになる。
No.100 yellow 上古:ki アイヌ:sikerepepeus
このアイヌ語の構成は、取りあえずは sikerepe-pe-us であり「キハダ(或いはキワダ)という植物・の水(溶液)・が着いているもの」と言うことである。確かにその色は黄色であろう。しかし、sikerepe (或いは sikerpe)はその植物の名である。日本語の「キイロ」がこの植物名「キワダ」に基づくものなら、この比較は意味があるが、しばしば言われるように「木色」が語源なら、この比較は意味がない。
No.112 dark 上古:kurasi アイヌ語:sirkunne
既述のように、このアイヌ語は sir-kunne と分析し得て、辺りの様子が・暗くなる、という構造である。kur- と kunne をこそ比較すべきであり、第一子音のみを比較するための語彙としては sirkunne は不適当である。
No.117 dust 上古:tiri アイヌ:sirma
果たしてsirmaが独立語なのか、上述同様に前半のsirは周辺の様子を意味している複合語なのか検討が必要であろう。ただ、ma が塵埃を意味するアイヌ語であるとは言い切れないが、八雲方言では mana が埃、toy-mana で土埃、を意味している(服部・アイヌ方言辞典)ので sir-ma という複合語の可能性があろう。
No.189 to vomit 上古:Haku アイヌ:atu
この日本上古語語彙も各地方言の utaku、神代記の「多具理」との関連を視野に入れる必要があろう。この方言 utaku が採用できれば両語とも母音で始まり(或いは第一子音は共にゼロである)最初に現われる子音は合致している、ということになる。

即ち、アイヌ語基礎語彙200に関して、上記語彙に就いては上述のような吟味が為されるべきである、と提言する。


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