「おしてる難波」という句がある。 『時代別国語大辞典上代編』では、
そこで「オシ」について琉球語を当たってみた。 『沖縄古語大辞典』によると「おす」の項目に普通の「押す」の意味の他に「月、日の光がさす。」という意味を与えている。 これを参照すれば、日本語「おしてる」の「おし」を敢えて接頭語とすることはなく、もう少し積極的に「光がさす→照る」の意味を与えることが可能だろう。 つまり「おしてる」とは直訳すれば「照り照る」という畳語なのだろう。 日本語側では「おし」が「照る」だということが忘れられかけていた、琉球側では保存していた、ということだろう。 さて「おしてる」は「照り照る」と推定出来るが、何故「照り照る」が「難波」に懸かるのか。 「難波」の語源としては神武紀に「難波碕に到着しようとしたときに、奔放たる潮の甚だ急なのに会った。それで浪速(なみはや)国とした。また浪花(なみはな)とも云う。今、なにわ)難波というのは訛ったのである」と書いてある。 しかし、枕詞は次に来る語を連想などにより導き出すのがその機能だ。だから、どうして「照り照る」が「波の早い」の枕詞になりうるのだろう、と考えていた。「浪速」というのは俗解ではないのかという疑念もでてきた。 琉球語を調べていて分かったのだが、「庭」と書いて「みや」と読んでいるのだ。意味は「神祭りの庭」だ。「真庭」と書いて「まみや」だ。 「宮」と「庭」が同語、同源の語なのか、というと、即断はしかねるが、魅力ある仮説だと思う。その可能性はあると思う。ここでは、少なくとも「には」と「みや」は同義語である、とは言える。
そこで「なには」とは? ということにつながるのだが、 言葉の点からは、この結論で良いと思っていたのだが、難波にある「祭りの庭」って何だ、何処だ、としばらくそれを悩んでいたのだ。 岡田精司著『古代王権の祭祀と神話』という本に「八十島祭り」の原形を推定して居られる箇所がある。原形、とは、八十島祭りを住吉神社が主催するようになる前の形のことだ。同書から引用する。
結論:押してる難波 とは 照り輝く真庭 であろう。 |