裸伴(あかはだがとも)考

orig: 99/11/20
rev1: 99/12/01 rev2: 00/01/16 rev3: 04/11/08 幸河:先代旧事本紀参照
rev4:12/02/13:雄山峠 追記
rev5:21/10/18:五瀬読み注記

日本書紀の垂仁天皇39年10月条に、『イニシキが茅渟の兎砥の川上宮で剣千口を造らせた。その剣を川上部(かわかみのとも)、又の名を、裸伴(あかはだがとも)と言う』、という記事があります。日本語で読む限りの本名と異名の間に何の関連も見つかりません。ところがアイヌ語を介して見ると、これらが同じ原義から発しているように窺えます。

まず、兎砥川上、をアイヌ語にしてみますと、
isepo
ruy砥石 (また「多い」という意味もある)
pene川上
という語列が相当します。(北海道釧路国川上郡(標茶町)に Isepo un nay (兎の いる 川)から転訛した「磯分内」と言う地名も現存します。)

一方、萱野茂著「アイヌ語辞典」には、こんな単語があります。
oruypene-emus抜き身の・刀
o-ru-pit-ne
即ち、「兎砥川上」に相当するアイヌ語と「抜き身(裸)の刀」をいうアイヌ語とを対比してみますと
isepo-ruy-pene兎砥川上
    o-ruy-pene(-emus)抜き身の(刀)
    o-ru-pit-ne
と、このように非常に近い音になっています。

また、上記で emus と書かれている「刀」には他にも tam という言葉もあり、川上とか裸の「トモ」との関連も気になる所です。

今、兎砥川と呼ばれるこの川の元々は isepo-ruy-pe(t) (周辺の土地に)兎の多い川、だった。この言葉と、oruypene (o-ru-pit-ne)の音がが近いために、或いは本当に千口の刀は鞘無しの抜き身だったので、訛りなり、語呂合わせなり、誤解なり、誤伝なり、を通じて「兎砥川上」で作られた「裸伴」という話が出来た、とは考えられないでしょうか。

2004/11/08追記:その後の調査で、先代旧事本紀の類似の伝承の中で、この河の名前を「幸河」と書いているのを見つけました。「幸」はアイヌ語ではisoが相当し、iso-po 小さい・幸が兎の意味です。つまり、兎砥川、が、幸河とも記録される背景はアイヌ語を通すとハッキリとする、ということです。


ついでながら、神武紀に「雄水門」という地名があり現在の男里のあたりと考えられています。これも、このあたりの旧名が「日根郡」であり、この「ヒネ」がアイヌ語で 男=ピンネ、pinne であることから理解が出来ようかと思われます。

現在阪和自動車道に「雄ノ山峠」があります。「雄ノ山」「雄山」とでも呼ばれる山名があった(ある)に違いありません。対照的に「雌山」があっても良い。北海道には「ピンネシリ(雄山)」と「松根山(マトゥネシリ=雌山)」の対があります(石狩郡と樺戸郡の境)。[2012/02/13 追記]

更についでついで、ですが、このあたりで、神武天皇の兄、五瀬命、が亡くなったことになってます。「イセ(が)死ぬ」は ise ray と言えます。これと、兎砥という地名 ise-po ruy との音の近さも不思議といえば不思議です。五瀬命がここで亡くなった、という民話(?)の原点かもしれません。(「五瀬」命、普通は「イツセ」のみこと、と読まれます。「イセ」と読むのは試論です。)


私は、アイヌ語は縄文時代に日本列島で広く行われていた仮称縄文語の後裔の言語ではなかろうか、と仮定して、記紀、風土記などに残る地名、人名、説話などの中に日本語では見えてこないがアイヌ語で理解すると良く分かる事例を集めています。今回の発見で私としては決定的な心証を持つに至りました。

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