出典(頁数は岩波古典文学大系風土記のもの) | 内容 | コメントなど |
播磨風土記揖保郡意此川条(p293) | 品太天皇之世 出雲御蔭大神 坐於枚方里神尾山 毎遮行人 半死半生 |   |
播磨風土記揖保郡佐比岡条(p295) | 所以名佐比者 出雲之大神 在於神尾山 此神 出雲國人經過此處者 十人之中 留五人 五人之中 留三人・・・ |   |
播磨國風土記神前郡生野条(p327) |
所以號生野者 昔 此處在荒神 半殺往来之人 由此號死野 以後 品太天皇 勅云 此爲悪名 改爲生野 | つまり、生野と云う地名は、昔、荒神が道行く人の半分を殺したので、死野、と云っていたのだが、良くない名前なので、生野に変えた、と云うものです。御方里条に「志爾嵩」という地名があり、ここの「死野」は「シノ」ではなく「シニノ」かもしれない。 |
肥前風土記基肄郡姫社郷条(p382) | 姫社郷・・・・昔者 此川之西 有荒神 行路之人 多被殺害 半凌半殺 | 荒神は女神だった |
肥前風土記神埼郡(p389) | 神埼郡・・・昔者 此郡有荒神 往来之人 多被殺害 |   |
伊勢風土記逸文(p437) | 安佐賀社 伊勢風土記 ・・・安佐賀山 有荒神 百往人者 亡五十人 四十人往人者 亡廿人 | アサカ<アラサカか? |
てこの呼坂(p447) | するがの国の風土記に云はく、庵原郡不来見(こぬみ)の浜に・・・・かの山にあらぶる神の道さまたぐる神有りて、さへぎりて不通。 | 古代風土記ではない? |
筑後風土記逸文(p509) | 筑後国号・・・昔 此堺上 有麁猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰 人命盡神 | 人命盡(ツクシ)神ってんで「筑紫」の国号が出来た、ってわけ。「麁猛神」と書いて「あらぶる神」 |
常陸風土記新治郡(p37) | 東夷之荒賊(阿良夫流爾斯母乃=アラブルニシモノ) | アラブル・ニシモノの解読 |
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常陸風土記信太郡(p43) | 和平 山河 荒梗之類 | 「梗」は「かみ」と読ませている。神の性格は書いてない |
常陸風土記茨城郡(p47) | 昔在国巣俗語 都知久母又云夜都賀波岐 山之佐伯 野之佐伯 | 「荒神」との関係は見えない。馴化してないが殺人はしないようだ。でも彼らは殺された。 |
常陸風土記那賀郡茨木里(p78) | 努賀毘古・努賀毘怡(ヌカ・ビメ)の兄妹。ヌカビメが正体不明の人の子を生むとそれはヘビだった。段々大きくなって昇天するとき、伯父を殺した。 | 一応、一人を殺し一人(妹)を生かしているのでリストしておく |
景行紀27年12月 | 吉備穴海に荒ぶる神がいた、殺した 難波の柏の済(わたり)の荒ぶる神を殺した | 荒神の性格に触れていない |
摂津風土記逸文 | 下樋山 | 天津鰐が鷲に化して十人中五人を殺す 神功皇后が退治した「羽白熊鷲」も参照(神功紀9年3月) |
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更に、山城国風土記逸文の南郡社の条に、宗形の「