フトの研究
記紀における「ト」甲乙の乱れの観察

orig: 2000/03/03


第4代懿徳天皇(おほやまとひこすきとも)の妃に関して日本書紀の一云に「磯城縣主太真稚彦女飯日媛也」とあり縣主の名前を「フトマワカ」と読む。一方、古事記は「師木縣主之祖 賦登麻和訶比売命 亦名 飯日比売命」とする。これも、フトマワカではある。親の名前なのか姫様本人の名前なのかは混乱しているが、今それは問わない。今、問うのは書紀が「太」で表した「フト」と古事記が「賦登」で表した「フト」の異同に関してである。

これを考えるのに「太」の用例を調べる。
用例古事記日本書紀コメント
神代紀の「太占」p85 布刀磨爾刀は甲類
神代紀「太玉」   
神代紀「太諄辞」p119 布刀能理斗刀も斗も甲類
考霊天皇名大倭根子日子賦斗邇命大日本根子彦太瓊斗は甲類

このように、太い、の「フト」の「ト」は甲類で書いているものが(少なくとも)3例ある。にも関わらず冒頭に掲げたように書紀の「太真稚」が古事記では「賦登麻和訶」と「登=ト乙」が使われている。

何故だろうか:

  1. 古事記の用字「登」が間違いである
  2. 書紀が「太」字を宛てたのは間違いである
  3. その他
実は「賦登」は和語の「太い」の意味ではなかったのではないか。しからば何か。他所でも多くの事例を示しているようにこれも縄文語起源でアイヌ語で理解することが出来はしまいか。

アイヌ語で put(u) が「河口」を意味する。「師木縣主之祖 賦登麻和訶比売命」は第4代懿徳天皇の妃であるが、第2代、第3代の天皇妃は同様に「磯城県主」の娘が嫁いでいるが彼女らの名前はそれぞれ「川派媛」と「川津媛」である。「河口」とは必ずしも川が海に注いでいる必要はなく合流地点でも良い。(当別太:当別川の石狩川への合流点。江別太:千歳川(旧名・江別川?)の石狩川への合流点。夕張太:旧・夕張川の千歳川への合流点。)

「川派媛」の「派」は「マタ」と読むであろうことは古事記がこの姫様を「川俣姫」と書いていることから窺える。川俣とは川の合流地点のことである。「川津媛」の「津」は船着き場、であろう。

斯様に「賦登」は「太」の意味ではなく put(u) 河口、川の合流地点の意味であったので、ここでは乙類の「ト」が使われたのではないか、と推測する。即ち、書紀が「太」字を宛てたのが間違いだった、または、原義が忘れられた、からなのではなかろうか。

「賦登」は上記だとしても続く「麻和訶」は些か難渋である。「和訶」は ワッカ=水 がすぐに思い浮かぶ。「麻」(マ)は「澗」(船着き場)であろうか。「川津媛」の名称もあるので良さそうでもある。通して「河口の・船着き場の・水」が原義であろうか。

第2代から第3代の天皇妃の名前が「川派媛」「川津媛」と来て、そして第4代(フトマワカひめ)がここに解釈したように「川俣津水媛」というのは、なかなか整合性があるように思える。

なお「マワカ」は「真若」という和語で理解しておくのがおとなしいか。

「マワカ」に関しては「マヤワカ考」もご参照下さい。


ヤマトトトビモモソ媛で考えた「倭迹速神浅茅原目妙姫」の「迹速」を tuto(二日)と捉えた時、tu を乙類、to を甲類、とした訳だが、ここで tu を乙類と捉えたことは整合している。

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