orig: 96/10/21
出雲の遊記山=烏帽子山=比婆山、の南は広島県比婆郡です。
今日、取り上げる地名は、その「古さ」が不明、です。和名抄なんかにも、恐らく、
出て来ないようなマイナーな地名ですので、そのツモリでお聞き下さい。(^_^)
今西:
比婆郡西城町にある地名、今西、今櫛山、井西山、に関して、こんな推理をして見ま
した。きっかけは:「今西」ってなら、元東、とか、今北、なんてのもあっても良さ
そうだが、存在しないとは言いきれないものの、見当たらない。
山田秀三の北海道の地名、など、に紹介されているアイヌのオハナシに、「昔、巨大
な神様(オキクルミ、とか、サマイクル、とされる)が(海岸で)鯨の肉を蓬の串に
さして焼いていたら、バチンと串が折れ、神様が驚いて尻餅をついた。その跡を、オ
ソル・コチ{尻の・その跡}と呼び、イ・マ・ニッ{焼串}は岩になって残った」が
あります。実際、白老町、元浦川上流、などにイマニッと言う地名があります。
ここまで、お読みになると、何を言いたいか、おわかりになるでしょう。そうです、
「今西」は、i-ma-nit それを・焼く・串、で、縄文語地名の音に漢字を宛てただけ
ではないか、ということです。同じ地名を、前半は音で、後半は意味を翻訳して、
「今」と「串→櫛」と山名を命名した。この山が、尖った串状の、岩山、だと
ピッタリですが。「井西山」も同じ縄文語地名に漢字を宛てた、但し、一音節
脱落してしまった、のでは?
周辺に、i-ma-nitに対応する、オソルコチ、みたいな地名があると理想的なのですが、発見できてません。
今西の北方に「長者原」と言う地名があります。長者、のことをニシパ、と言うので
、これも、「ニシ、ニシ<ニッ」と関連するのか、チェックを入れて居ります。
比婆:
さて、上記の西城町が属する郡名は、今は「比婆」ですが、西城町よりも30kmほ
ど西の高野町の地域は、風土記の時代には「恵宗(ヱソ)郡」と呼ばれていました。
「比婆郡」の名がどこまで遡れるか不明ですが、比婆、の意味を探ってみます。
アイヌ語では、pipa =からす貝、です。北海道の雨竜川流域にある「美馬牛」
(びばうし)は、pipa-us-i からす貝・多い・もの(この場合は川)、
の意味であるとされています。北海道には、ピパ、ビバ、の付く地名が沢山あります。
「北海道の地名」の索引では、20ヶ所以上がピックアップされています。
そう思って、比婆山から発する西城川流域をみて行きますと、庄原市に入って、貝六、
貝の平、が見つかります。
ちなみに、この西城川は三次市で江の川に合流して北流しますが、三次に入った途端の「木呂田」、合流直後の「日下」、北流した広島県内では最後の地区、双三郡作木村の「作木」、同村内の「貝の谷」、「伊賀和志」など興味ある地名が多いです。
ダイダラボッチ:
「今西」のところで紹介したアイヌの巨人伝説は、実は、和人の(?)ダイダラボッチ伝説と軌を一つにしている様に思えます。常陸風土記にも類似の説話があります。
那賀郡・・・平津・・・に岡がある、名を大櫛、という。上古、巨人がいた。
身体は岡の上に居るのだが、手は海浜の大蛤を「摎りぬ」(くじりぬ:砂の中から
ほじくり出している)。食べた貝が積もって岡となった。時の人、「大くじり」
の意味を取って、今は大櫛の岡、と言う。足跡の長さは53m、巾は36mほど。
小便した穴の跡は直径36mほど。
尤も、西城川が江の川に合流して北流した後、日本海に注ぐ河口の東に「浅利」
という地名があり、オショル、の訛か、と気にはしております。しかし、離れすぎ、
のように思えます。
今日は広島県比婆郡東城町の地名を調べてみます。
●古頃:
東北端の古頃山、持丸川の「セット」が最初のテーマです。
「古頃」は比婆郡比和町の字名にもあり、こごろ、と読まれています。
これは、フルコロ山、と読むと、持丸、との関連が見えてくるのです。
即ち、hur-kor-山、で、「丘を・持つ・山」、となります。
尚、「山」は、nupri, sir, kim, hur, ur(e), などの語が有り得ますので、
敢えてアイヌ語を当てはめずに「山」としてあります。
一方の、「持丸」ですが、「丸」は、よく山名に使われます。マル・モリ・ムレ
などは同源の言葉かも知れません。
それで、「持丸」も「持つ・山」となります。何を持つのか。最初の「丘」に
相当する言葉が脱落したのではないでしょうか。元来は「山持丸」とか
「丸持丸」だったのではないか、とは想像し過ぎかもしれません。
それでは、比和町の方に何かヒントがあるでしょうか。直接的な証拠は無いの
ですが、上古頃、下古頃、の西方3km程の所に「熊山」、別名、笠尾山が
あります。「熊山」は、熊の多い山、かも知れませんが、北海道にある、
クマ・ネ・シル(横棒・のような・山)を参考にしてみます。「横棒のような」
とは、山頂が横に長い、或いは、山頂が畝の形のような、と言う意味です。
それは、あたかも一番高い山頂(まぁ、親、でしょうか)、そこから少し離れて
少し低い頂き(つまり、子に当たるような)が、一つか 幾つかある、ような
山のことではないでしょうか。
実際、熊山の南に熊谷と言う所があり、そこには、熊山より低めの頂きが、熊山
から連続した地形として、地図上の地形読みが可能な程度に存在しています。
●猫山:
nay-kot 水の涸れた沢、川の跡、
北海道知床半島羅臼にも「猫岳」があります。これが、涸れ沢の意味だ、とは
サポート資料がありませんが、「日本縦断アイヌ語地名散歩」を参考に
しました。 この先はカナリな言いがかり、ですが、羅臼の猫岳からは、
茶志別川が流れています。茶志=chas=城砦、を意味し得ます。どうでしょう、
東城町、西城町、の「城」の字を、何時の頃か、宛てたのは偶然でしょうか?
●耳木谷山:
「耳」の字・音は、他でも(古代の人名)興味のある字・音ですが、
南側の山麓にある加谷(かや?)、加谷神社、にヒントを得ました。
次のアイヌ語をご覧下さい。
つまり、この山名は、
kisar-kitay だったのではなかったか。
それを耳−キタニ→耳木谷と
取り入れたのではないか。
更に、kisar の本義は、茅(カヤ)だった(なんとなれば南に「加谷」がある)
のを、同音で「耳」と取り違えてもいる、と言う事情ではないのでしょうか。
そうしてみると、西城町の「皿谷」も、sar 葦原(など)で考えた方が良さそう
だし、確か中国山地のどこかで見たのですが「木皿」なんて地名も、この関連で
解いた方が良さそうに思えます。
●白滝山:
まぁ、気泡が沢山入った白色の滝のある山、の様な気もしますが、
(これに就いて、現地をご存知の方からのお知らせを期待してます)、
南西麓に「狐峠」と言うのがあり、気になっています。即ち、「狐」を
意味するアイヌ語は、少なくとも3語あるのですが、その一つに、キムン・
シラッキ、があります。これは、kim-un-siratkiで、山の家神、の意味です。
どういう事かと言うと、狐の頭蓋骨を山の神として家の中で祭っている、と
言う所から来ています。(尚、海の家神、はアホウドリの頭骨です。)
この「シラッキ」(家神)と、「白滝」の音、「狐」の意味、とのマッチング
が観察されるのです。
●野旅山:
中国自動車道の南、県道23号の南にある、この山は帝釈川の曲流した
湾曲部分にあり、川から500m程しか離れて居ません。それで、
nutap 川の湾曲部の土地、がピッタリ当てはまる地形、と読めます。
長くなりましたので、この辺で。。。
今回は、三次市から江の川を水源に向かって遡って行きます。
早速、三次市内ですが、ここには、いわゆる欠史8代の諸天皇の妃や、
その時期の登場人物の名前と共通する地名が見られ、興味津々と言った所
があります。即ち、
「糸井」「泉水」「和知」 「若屋」「知波夜比古神社」などです。(姫・比賣・媛、とか、后・妃、書き分けはして居りません。念の為。)
「和知」都美とは、安寧天皇の孫の名前で、和知都美の孫が、有名な箸墓古墳の主とされて来ている、倭トトビモモソ姫です。なんと、岡山市のJR岡山駅のすぐ西に岡山神社がありますが、ここの御祭神が、上記の倭トトビモモソ姫、だそうです。広島県内でなくて残念だけど、どうして岡山で此の姫を祭っているんだろう、と不思議です。もっとも、この姫の兄弟に「吉備津彦」がいるので、それにちなんでいるのではありましょう。
倭飛羽矢「若屋」姫、は上記のトトビモモソ姫と姉妹関係にあります。詳細は倭トトビモモソ姫のファイルをご覧ください。
もう少し強引に当てはめようとすると、
この地域の古代史が欠史時代の中に、はめ込まれていた、なんてことにでもなれば、面白いのですが、なかなか、そうは簡単には行きますまい。しかし、上記のような符合は、何なんでしょう。単なる、偶然、でしょうか。吉備の古代史も焦点が当たっていますので、更に研究してみる価値はありそうです。
さて、江の川は三次市から北西に流れて、島根県江津市で日本海へ注ぐ一方、三次市から南西に遡り、その後北西に転じて山県郡大朝の水源に至ります。遡って行くと、高田郡甲田町、吉田町、八千代町(八千代湖)を過ぎて北上する辺りに、
「火神城山」があります。今までも触れたように、アイヌの重要な神様が「火の神」なので、気になります。北上していた流れは、左(西)に折れ、「平家が城山」を見て、再度北上して、「火野山」山麓を通過します。ここでも「火」へのコダワリが見られ、ことのついでに「平家が城山」も、 penke-sir、川上の山、なのだろうか、と疑って置きます。この場合、火神城山に対しての川上、でしょう。(尚、地図には、火野山、カッコ内に、日野山、とも書いてありましたが、奈良時代ならば、火と日の「ヒ」は別の音として区別されてましたので、後代につけた別表記でしょう)
この推理、つまり、これらの山名を、またしても、アイヌ語(おっと、縄文語?)、で解こうとしたのは、山県郡芸北町の北端にある「一兵山家山」がアイヌ語で解釈出来るからです。
この不可思議な山名を、ipe-sanke-山、と解いて見ました。「食物を・前に押し出す・山」の意味です。「食物」とは、多くの場合「鮭」を指しますが、ここでは、敢えて特定しません。北海道でも「三毛別」(さんけ・べつ)と言う川がありますが、「北海道の地名」では、その解として「浜の方に出す・川、だが、何を出したのかは、どこでもはっきりしない」とあります。サンケ、の前に主体語が無いから、何を出したのか判らないわけです。広島の方では、ipe を出した、と読めます。
まぁ、この辺りに平家の落人がいて、最後の一兵が立て篭もった山の家の事、なんて、伝説があると、困りますが。。。。(^^;)
大朝町の北界、島根県邑智郡瑞穂町との境に「唐代山」がありますが、上記の「火」へのコダワリに乗じて、これも、kara-sir、火を起こす・山、と読める事を附記して置きます。
先回、芸北町の一兵山家山に触れましたが、この町に「毛無山」があります。この日本語からは、禿山、を想像しますが、どうなのでしょう、実際の景観は。実地踏査もせずに言うのも、はばかられますが、木は生い茂っているのではないのでしょうか。或いは、地名を毛無山と付けたときには禿山だったけど、今では木が茂ってしまっただけなのか。。。
同様の名称の山は、四国・九州には見当たって居りませんが、この芸北町を西の限りとして、中国山地、長野、静岡、新潟、福島、岩手、青森、北海道小樽付近、までに分布しています。(小生の地図上での収集の範囲では、です。)
長野県のは「怪無山」と言うのを拾いました。青森には「木無岳」がありました。徳島県麻植郡美郷村には、字名、で「毛無」がありましたが、山は見えない。
これは、アイヌ語の方では、kenas で「川沿いの林」と言う意味です。毛無山とは、そういうポイントのある山、なのではないでしょうか。
中国山地の毛無山をリストしておきます。
rev1: 97/07/17 format
広島県比婆郡西城町:
ジャイアント馬場も驚く(?)とんでもない巨人の話ですが、osor-kot、オショル・
コッ、と「おお・くじ(り)」の音の(僅かながら、或る程度の)類似が見られる事
と、訛った後の話とされているようではあるものの、「櫛」のモチーフ、など、注意
を引くものがあります。
osor-kot の具体的な説明を、知里真志保著「アイヌ語地名小辞典」を参考に記して
置きますと、(見出し語:osor-kot)、これは、白老の例を説明してるのですが、
△
■ ←海中の突出した岩 i-ma-nit
■
■
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
海岸 浜辺
〜〜〜〜〜| | 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
崖 | |
| osor-kot |崖
| | osor-kotの形状は実は、丸まっている。
---------------
崖
念のため付言しますが、この白老の例では海岸に焼き串と尻餅の跡がペアで存在して
います。しかし、imanit が川の上流に存在し、対となるべき尻餅の見当たらない例
が元浦川にあり、広島県比婆郡西城町の今西の語義を imanit に求めても直に「不適」
の烙印は押せない、と思ってます。
広島県比婆郡西城町:
ki 禾本科草本の茎;稈:とくに、茅 sar 葦原;湿原;沼地;泥炭地;やぶ;しげみ 因って、
ki-sar= 茅(葦)原kisar 耳 kitay 山頂、頭
●三次市と周辺
この他にも、既に述べた「日下」も三次市内にあるし、「安宿」と書いて「アスカ」
と読む地名が三次市南界から10km程南の、加茂郡豊栄町にあります。
毛無山:
余談ですが、素戔嗚尊が韓国から木の種を持って来て蒔いた、と言う説話の一つに、ヒゲを抜いて放ったら杉になった、胸毛は桧に、尻の毛は槙に、眉毛は樟になった、と言うのがあり、「毛」と「木」(「ケ」と「キ」)が、相通じている様子が窺えます。(日本書紀)
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