自由自在な漢字表記 |
日本語を記録するのに字が無かった時、漢字を使って日本語を記録した訳です。そして漢字を援用するにあたって実にいろいろなモードが観察できます。よく知られている「音」読み、「訓」読みもそういうモードの一つです。 例えば、英語で riverと言う、水が山の方から海の方へ流れてくるあの地形を、日本語では [kaha] という発音で表していました。
上記のような純粋な音読・訓読以外にも音訓混合(俗に「湯桶」読み、これは訓+音;「重箱」読み、これは音+訓)があるのは良く知られている。古事記から一例を挙げればイザナミが最後に生んだ神のことを「火之迦具土神」と書くが、これは、訓訓音音訓訓、の順序に「ひの・カグ・つち・(の)かみ」と読まれる。 これは古事記の原注に「迦具の2字は音を用いよ」と書いてあるので(デフォルトは、他は訓読せよ、ということで良いのだろう)我々が勝手に音訓交じりで解釈しているわけではない。(この神名の場合には日本書紀では「軻遇突智」と表記しているので、カグツチと読むことが更に保証されている。) こんなことを踏まえてアイヌ語地名がどのように漢字表記されているか少し見てみます。 ・漢字の区切りと意味単位の区切りは必ずしも一致しない 最初に、北海道後志支庁磯谷郡にある「蘭越」(らんこし)町、を取り上げてみます。とっさに、ranko-us-i 桂の木(が)・ある・所、ではないかと思われます。そして周辺を調べてみるとなんと「桂台」「桂の沢川」という地名が発見され嬉しくなります。実は、ここは既に山田秀三さんが踏査されて、確かに桂の木が生えていることを確認されて「ランコウシ」がオリジナルである、と認定されました。 ここで気が付くことは「蘭越」が「音・訓」読みになっていること。そして、更に、アイヌ語の意味単位の区切りと漢字表記の区切りが一致していないことです。つまり、ranko-us-i の区切りに合わせるならば、例えば、蘭庫・牛、とか、覧古・臼・威、とかすることも有りうるでしょうが、実際は「蘭越」書かれた(勿論そんなに古い話ではなく江戸とか明治の頃の宛字なんでしょうが。) つまり、「蘭越」地名が教えてくれることは、漢字の意味に捉われてばかりいてはいけないと言うことのみならず、漢字の音の区切りと原名の意味単位の区切りは必ずしも一致しないことがある、ということです。 「朱円」という地名があります(網走支庁斜里郡斜里町)。これも山田秀三さんの「北海道のアイヌ地名十二話」を参考にしますが、シュマトカリ、と解されるそうです。傍証として、そこを流れる川が「島戸狩川」と書かれるそうです。(現在では「シュエン」と読むそうですね。) 「円」は確かに「まどか」とも読めるので、なるほど、こういう宛字をした訳ですね。さて、このアイヌ語での原名は suma-tukari 石(の)・手前、の意味です。ここでも、原名の意味単位の区切り(suma-tukari)と漢字の音の区切り(shu-madoka)が一致していません。「島戸狩」の方が区切りとしては原名に近い宛字ですね。 要するに、原名の意味を知らないと(或いは知っていても無視して)原名の意味単位の区切りとは無縁な漢字を宛てることがある、という実例でした。 ・翻訳されている場合もある 次に「虎杖浜」を調べてみます。これは登別市の北東隣の白老町の海岸の地名です。今、こじょうはま、と呼ばれています。これは、すぐ近くの「倶多楽湖」「窟太郎山」と関係がある地名です。即ち、 kuttar は「いたどり」という、たで(蓼)科の多年生草本の名前です。「いたどり」は虎杖と書きます。 これらから、kuttar に特徴を見出して浜、湖、山に共通につけられた名前が、浜に於いては翻訳されて虎杖浜となり、湖と山に於いては異なる漢字を使って音写されていることが判ります。 翻訳地名の例をもう少し探してみますと、留萌支庁中川郡中川町に「神居山」があります。他所の「カムイ・ロキ山」(足寄郡足寄町)から推察して、同様の山名を「神居山」と翻訳しているのは先ず確実だと思われます。 旭川市の北境にある「冬路山」ですが、mata-ru=冬・道、の翻訳地名かと考えられます。mata-ru(冬道)とか sak-ru(夏道)は地名に散見されます。(稚内市の「又留内」) ・変わった宛字 変わった宛字の例を挙げてみましょう。桧山支庁爾志郡乙部町を流れる「可笑内川」。どう読みます? 「おかし・ない・かわ」です。「内」が既に「川」の意味なのに、更に「川」が付いているのも注意しておきたい点ですが、o-kas に対して「可笑」を宛てています。「おかしい」を日本語で「可笑しい」とも書くことから、こういう宛字になっています。 万葉集から変わった宛字を幾つか拾ってみました。
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