宗像三女神と国生み物語 |
古事記の国生み物語りを整理しておく。(日本書紀には島の名前も順序も数も異なる諸説が書いてある)
一方、天照大神とスサノヲのウケヒにより生まれ出た子の一群は宗像三女神と呼ばれ下記の通りである。
さて、多岐都比賣命は九州本土(?)に堂々とましましているので結構だが、最初の二神はどうにも小さな島に閉じ込められているように思えるが如何だろう。 市寸嶋比賣命は伊伎嶋、多紀理毘賣命は津嶋(対馬)、とはならないのだろうか。 市寸嶋比賣命の「寸」(キ)は甲類だし、伊伎嶋の「伎」も甲類であり、その面の問題はない。イチキ島姫がどうしてイチキ島に居られないのか? 上表のように、「市寸」嶋比売命を、発音そのまま、「壱岐」に比定するのは良しとさせてもらおう。この神の異名が「狭依毘売命」とあるが、多紀理毘売の所に挙げた「津嶋 亦名 天之狭手依比売」という『古事記』の記事を付き合わせるとどうだろう。「狭依毘売命」と「天之狭手依比売」が同名なのか、似ているが異なる名義なのか、あるいはまた姉妹であるから名前も近いのであろうか。 多紀理毘売命と多岐都比売命も似た名前であり、対馬、壱岐、筑紫、の三者が相互に似た名前であったか、と推定する背景である。
壱岐に関しては少々異なる考えもある。この島の名前は『古事記』には「伊伎嶋 亦名 天比登都柱」とある。異名の方は「あまの・ヒトツ・はしら」と読まれる。壱岐の黒崎半島の突端には、今「猿岩」と呼ばれる屹立した岩石がある。以前は「柱本」と呼ばれていた。昔物語に、イキの島は生きの島で、玄界灘を左右に動く暴れん坊だったので、神様は周囲に8本の柱を立てて繋ぎ止めた、というのがあるそうで、「ヒトツ・柱」ならぬ、「八・柱」という説である。確かにこの島の周囲には奇岩が多い。『古事記』があえて「ヒトツ・柱」としたのはなぜだろう。壱岐が i-chi によるとすると、これは「その(彼の)・イチモツ」であり、「ヒトツ・柱」と呼ぶ必然性もありそうである。 日・月に基づいた i-chup のような地名であったのに i-chi のような俗説めいた名称もあったであろうか。それにより後者が壱岐と書かれるようになったことが考えられるが、「一支」を『魏志倭人伝』が「一大」と誤ったのは、こう考えると抱腹絶倒の感がある。
「対馬」と書いてなんの疑いも無く「ツシマ」と読んでいるが、音読みなら「ツイマ」辺りの筈である。古代日本語では二重母音が嫌われていたので「ツイマ」が「ツシマ」になったのだろうか、そうだと「ツイマ」が原語だ、ということになる。魏志倭人伝も、この島のことと思われる島を「對馬」と書いており「ツイマ」(「テマ?」)あたりに近そうな音になる。アイヌ語に tuyma=遠い という語彙があり、あまりにもドンピシャ?で反って警戒する。もしそうだとすると「對馬」とは、どこか遠くからこの島の事を「遠い島」と名づけた事になる。近畿からか、九州からか、はたまた、帯方郡からか。。。 普通、地名は自称ではないだろうか。あまり地名で他称を使うのも例が見当たらない。 tu sir なら「二つ・島」だ。これも悪くはない。対馬にはアマテル神社があり、日神との関係が強い(壱岐は月神)。 chup sir だと「日(月)島」の意味になる。これか? 壱岐の i-chi、筑紫の chuk-sir (下記)を思うと 対馬の chup sir も魅力がある。 次にアキツシマを考える。結論から書き起こすと、「筑紫」とはchuk (秋)sir(島)であろう、と考える。そう考えた場合に、ニギのミコトの母親の名前も多数異説が伝わってるが、古事記では「萬幡豊秋津師比売命」とあり「秋津師」があたかも「chuk tu sir」(秋 二 島)の翻案に見える。二島(二国)と言うのは、豊+秋のことだろうか。或いはツシマであろうか。或いは 秋・chuk・島 の様な二言語に渡り構成されているのであろうか。(Cf. Mount Fuji-yama。富士山だって、フジサンと読む時、日本語(?)フジ+漢語のサン、だ。) 神武東征のコースの一部に筑紫から安芸(この間は直行)があるのも chuk を介してツクシからアキへと言う関連づけをすることが出来る。そして、有名な安芸の宮島には厳島神社があり「ツク」音が入っている。ここの御祭神は違わずイチキシマ姫始め宗像三女神だ。 秋津、アキツがトンボの古語であるアキツ・アキヅと絡めて語られるようになるのだ。
参考:
古事記に「天菩比命之子建比良鳥命」が出雲始め幾つかの国造の祖とあり、その中に津島縣直の祖ともある。
先代旧事本紀は・天日神命を 対馬縣主等の祖、とし(阿麻氏留神社あり)
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