「倭文(しとり)神」の周辺

ORIG: 2008/12/14

「倭文(しとり)神」とは天孫降臨に先立つ国津神征伐のシリーズで「天香香背男(かかせを)」の征伐にあたった神で、別名に「建葉槌(たけはづち)」とも云われる。

「倭文」とは、「漢(あや)」が中国の織物の「綾、文様」に対して倭国の文様のことを云う。「しとり」と読むが、原点は「しつ・おり(織り)」である。

このシリーズにも謎が多く、強い興味をもつものの、史料が少なく、確たる理解に達していない。最近、神奈備さんのHP-BBSで
 「伯耆一ノ宮の倭文神社(シトリ)神社の祭神はまさに下照比売、倭文(しづおり)を広めた女神として崇敬されています」
 という記事が上がっていた。「下照比賣」を「しつ(しづ)織り」に解することは考えても見なかったことなので検討してみた。

同神社の祭神は:御祭神 建葉槌命:相殿 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命 となっている。

以下、資料によって「比賣、日女、媛、姫」などとある「ひめ」は「姫」と書く


ことばからみた「下照」と「倭文」:

上記BBSの記事では、一つには「下」を「しつ」とも読むことで「しつ・織り」とのつながりを見ようとしている。確かに「下枝」と書いて「しつえ」と読む例がある。しかし、どうやらこれ一例であり、「下」が他の語(字)を修飾する場合に「しつ」となる例が見あたらない。「下瀬」で「しもつせ」など。
 更に実例のある「下枝」の場合は「下」が名詞「枝」に対する形容詞として機能している;それに対して「下照姫」の場合には「下」が動詞たる「照」に対する副詞であろうことが難点である。
 しかし、如何に理屈で疑問を呈してみたところで、現実に倭文神社に下照姫が祀られているのだ。従って、上記の理屈にかかわらず、俗解が行われていたかもしれないことの否定は出来ない。

上記BBS発言では更に「下」が「おり」とも読める、としている。「しつ・織り」の「織り」に絡めようと云うことであるかもしれないが、「下照」で「おり・照る(?)」となってしまうので、「下」を「おり」と読んだ場合のメリットが不明である。


人物(神)相関からの検討:

「下照姫」は別名「高姫」とも呼ばれ、味耜高彦根命(アヂスキと略す)の妹であり、天若日子(天稚彦:あめのわかひこ)の妻である。天若日子は葦原中国を平定するようにと高天原から派遣されたが下照姫を娶って、八年を経ても復命してこない、即ち反逆した、ので高天原勢によって殺される。
 このストーリーと、「天稚彦」「下照姫」が「倭文神社」に「建葉槌命」と共に祀られている、ということを、照らし合わせてみると、
建葉槌命が征伐した「天香香背男」とは「天若日子(天稚彦)」のことであり、その妻「下照比賣」と共にここに祀られている、と理解することが可能だ。

更に、「天香香背男」の別名に「天津甕星(あまつみかほし)」がある。一方、出雲国風土記に「天御梶姫(あめのみかぢひめ)」(アヂスキの后)、天■津姫(あめのみかつひめ)」(赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后)があり、ここの「みか、みかぢ、みかつ」が同義であると考えられる(■は「瓶」の異字体)。

即ち、これら姫名(みかぢ、みかつ)には「みか、甕」が入っており、天津甕星(=天香香背男)と夫婦でありそうだ。(当然、アヂスキ=赤衾伊農意保須美比古佐和気能命=天津甕星=天香香背男、となる。)

前段では:建葉槌命が征伐した「天香香背男=天若日子(天稚彦)」、とした。ここでは、「アヂスキ=赤衾伊農意保須美比古佐和気能命=天津甕星=天香香背男」とした。即ち、「天稚彦=アヂスキ」でもある。天稚彦が死んだときにアヂスキが天稚彦と間違えられた、という説話があるが、なんのことはない、やはり同一人物だったか。

「天稚彦=アヂスキ=赤衾伊農意保須美比古佐和気能命=天津甕星=天香香背男」の夫婦関係を整理しておくと:
天稚彦下照姫アヂスキの妹
アヂスキ天御梶姫 
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命天■津姫 
天津甕星伝承なし「みか」のつく人を予想
天香香背男伝承なし「香香妹」を想像
「下照姫」はアヂスキの妹とされるが「妹」とは、sister and/or「妻」であり、伝承が多岐に渡ることになっているようだ。


あられ降る鹿島・香香背男
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