さて、「ワチ」を広辞苑にあたると「輪地、野獣の害を防ぐための田畑の外囲。鹿垣(ししがき)、鹿堤(ししづつみ)。しがき。」とある。平凡社の世界大百科事典にも倭名類聚鈔にも出てこない。もう一つ見つかったのが、岩波古典大系の播磨風土記の頭注に「茅の類の丈長い草の名か。」である。さすれば、重箱読みだが、倭の茅(チ)、なのであろうか。
名前 | 出典 | 備考 |
和知都美命 | 安寧記 | 安寧の子である師木津日子命の子で、淡道の御井の宮に坐す。蝿伊呂泥(意富夜麻登久迩阿禮比賣命)の親。この比賣は孝霊天皇妃となりヤマトトモモソ毘賣を生む。 参考:出雲・爾佐の加志能為と和知都美のつながり |
櫛月を久志和都命(クシワツノミコト) | 出雲大社松山分祠のHPにある「出雲国造伝統略」。天之穂日を0代と数えた時の5代目に当たる | つまり「月」を「ワツ」と読む |
和知(わち) | 岐阜県加茂郡八百津町 |   |
広島県三次市和知町 | 25万分の1三良坂(北西) |   |
兵庫県飾磨郡夢前町両月(ワツチ) | 25万分の1前の庄(北西) | 両月=ワッチ。この町の東端を北上する夢前川水源に「賀野神社」がある。やはり、茅(カヤ)と関連するか? |
兵庫県加西市両月(ワチ)町 | 笠原(北東) | 両月=ワチ。ここは次の播磨風土記に現れる場所であろう |
播磨国神前郡邑曰野(オホワチノ) | 阿遅須伎高日古尼命神 在於新次社 造神宮於此野之時 意保和知苅廻為院(かき) 故名邑曰野 | 曰 を「ワチ」と読むことと、「ワチ」が「院(かき)」に通じていることに注目! 岩波頭注:「茅の類の丈長い草の名か。垣・柵の或種のものをワチというのは材料の草名からの転義の如くである。」即ち、大茅、大萱、大栢、とでも理解しておくか。 |
『時代別国語大辞典上代編』 | 「わち」の項 | 茅の類を外囲いにしたものか。【考】ワチの語は現在の方言に見いだされる。・・・(上の播磨風土記の文に関して)結局は野を開いて作った神社の周囲に、大ワチすなわち大きな生け垣に似たものをめぐらしたものをいうか。 |
実は、大茅、と解すると siki=オギ(荻)si-kina=がま(蒲){大きな・草}、萱、辺りを通じて、アヂスキ(阿遅志貴、とも書く:古事記)の「シキ」がこれか、と窺われ、「ワチ」が「阿遅」に通じはしまいか、と検討している所である。詳しくは下記に。 | ||
京都府船井郡和知町 | 和知町商工会 | 地名の由来をお知らせ頂いた。下記 |
静岡県浜松市和地(ワジ)町 | 近在に大草山、深荻町など。 | 蒲(si-kina)郡周辺に大草*2、長草、荻、地名あり。和地山(未確認) |
愛知県渥美郡渥美町和地 | 渥美半島先端南岸 |   |
さて「ワチ」とな何であろうか。意味としては、広辞苑の「輪地」説、岩波風土記頭注の「茅の一種」がある。でも何故「両月」と書いてワチと読むのかは説明できそうもない。
そこで、漢和大辞典(藤堂明保編・学研)を見ると「曰」(「日」でなく「曰く」の字)と「月」の発音は次のようになっている。つまり、いずれも「ワツ、ワチ、ワッ」に甚だ近い。
「出雲国風土記」の神社リストに
意宇郡 加豆比社 勝日 能義郡広瀬町(旧社地は月山=勝日山)とある。「月」を「カツ←ワツ」と読むことと関連しそうだ。「日」も「曰」との混乱を見て良いか。(或いは、単に「月」より「日」が良かったのか?)
字 | 四声・韻 | 上古 | 中古 | 中世 | 現代 |
曰 | 月(入声) | Hiuat | Hiu∧t | iue | yue |
月 | 月(入声) | ngiuat | ngiu∧t | iue | yue |
上記から、「ワチ」という和語を「曰」と書いたり(播磨風土記)「月」と写したり(出雲国造伝統略)したもののようである。
しからば「両月」と「両」を付けたのは何故だろう。「両」の発音の変遷は上記の順序に liang-liang-liang-liang と安定してリャンに近い。「両」字の入っている理由が思い当たらない。
試論として:「曰月」と二字使って、それが「日月」に化けて、それが「両月」になったか?
岩波古事記頭注20@p117では「・・・かように音韻が異なっているのは、資料が異なるためか、音が変化したものか、なお考うべきであろう」としている。
非和語の音写と解すればかような揺れが有り得そうではないか。アイヌ語のsiki(荻)が和語「シキ」に相当するのではないかと仮設している。
それは、音が似ている他に、もう一つの理由がある。それは、アイヌの伝承に「国造神の鼻くそが「荻=siki」になった」ということがあり、一方和語側においては「アヂシキは大国主の子である」からである。
以上、この段階での「アヂスキ語義探索」は「ワチ(和語・大萱)siki(na)(アイヌ語<縄文語・大萱)」としておく。 (アヂをアイヌ語 anchi=黒曜石と考えた試論)
和知の地名(平成11年3月「和町町文化財を守る会」発行の「和知の文化財」和知の地名考〜中井丈ニさんの文書より) 「和知」という地名が最初に文献に現われたのは、仁和寺文書の「代々官符牒状等目録」が初見。(「町誌史料集」)和知の全域は、平安時代、京都市仁和寺の荘園であった。即ち同目録によると、承平6年(936)6月23日、官符荘として田祖を国に納めない田地(不輸祖田)とされ、以後、諸種の文書には「和知」または「和智」と記録されている。 和知の地名の起こりは「和知とは、川が輪の形に湾曲するところの土地=輪地から転じ、その河岸の高くなった段丘に田を耕し、山すそに畑を開き河水をひくことができないので、上の山から水がこぼれないように、段丘の縁に畔畝をつくった、そのアゼをワチというらしい。 また、猪の害を共同して防ぐシシガキ(獣垣)をワチともいい、その生活共同体をワチというらしい」(史料集の監修のことば)。当地には、端をワチという方言もある。いずれにしても、この地名は自然の地形に由来するものであるといえる。「和知(智)」の漢字を充てているが、漢字には何の意味もない。 |