カヤナルミ考・1
かやなるみ・2

orig: 96/04/12
rev1: 97/07/12
rev2: 98/09/07 丹後と吉野の関係?

紀記には出てきませんが、祝詞に「カヤナルミ」と言う名前の神様が出てきます。不思議な名前に思え、調べてみました。私の参照している祝詞は、岩波の日本古典文学大系の「古事記・祝詞」と二書が入っているものです。

この中に「出雲国造神賀詞」(いずもノ・国ノ・みやつこノ・かむ・よ・ごと)があります。この祝詞は、天之穂日が高天原に復命しなかった、という大多数の伝承、に反して、天之穂日は復命をした、としている唯一(と思います)の伝承で、出雲サイドの主張と考えられます。

さて、祝詞を読み進んで行きますと、
  • 大穴持の和魂を大物主櫛甕玉(くしみかたま)、と称して大御和(三輪)に
  • 阿遅須伎高孫根、を葛木の鴨の神に
  • 事代主を、うなてに
  • 賀夜奈流美(かやなるみ)命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、、、」
  • と出てきます。 この、「かやなるみ」、に就いては、頭注(p455)でも、「紀記に伝えない。飛鳥神社 の祭神。」とあるだけです。

    上記の出雲國造神賀詞に出てくる方の4神の内の2神、と、それらの妹神の祭られている場所は、先代旧事本紀(大野七三編著 p96)に拠ると:

  • 高彦根神
  • 倭国葛上郡高鴨に坐す神捨篠社
  • 妹、下照姫命
  • 倭国葛上郡雲櫛社に坐す。
  • 都味歯八重事代主命
  • 倭国高市郡高市社に坐す、亦云、甘南備飛鳥社。
  • 妹、高照光姫大神命
  • 倭国葛上郡御歳神社に坐す。

    さて、「かやなるみ」という神名に就いて、色々考えを進めてみます。

    1. まず「かや」と「なるみ」に分割して良さそうに思えます。 (他の分割、「かやな」・「るみ」と分割するのは「ラ行」で始まる日本語は 無いことから排除しました。)

    2. 後半の「なるみ」ですが、この祝詞では「奈流美」と漢字の「音」を使って表記しています。この言葉は、古事記の出雲系譜に出てくる「鳥鳴海」などの「鳴海」と共通しているように見えます。「なるみ」の意味は不明ですが、「かやなるみ」と「とりなるみ」から、「なるみ」を差引き「かや」対「とり」の対比が抽出できます。

    3. 「かや」を加耶、と考えるなら、それと対比しようとしている「とり」も、国名のカテゴリーで考えるのが相応しいでしょう。雄略紀8年条に、新羅と高麗の間の争いに関する記事があり、そこに「鶏の雄者を殺せ、と言い、人々はその意味を知って、ことごとく国内にいた高麗人を殺した」と言う文章があります。これの解説では、
      新羅語の tark が鶏を意味する
      高麗語の tar, tak が高句麗の軍隊・軍人を意味する
      ことから、「とり」と「高麗」が結びつく、としています。

      つまり、「かや」対「とり」の対比から、「かや」=「加耶」、「鳥」=「高麗」の推定が出来そうです。

      常陸風土記行方郡の条に出てくる「天の鳥琴、天の鳥笛」の「鳥」も「高麗」の楽器、と考えても良さそうに思えます。岩波の頭注p60では、「トリ」の語義は不明としています。

    4. なお、「かや」と「とり」の対立概念のセットとしては、他に、参考までながら

      アイヌ語: kaya 帆; turi 船を漕ぐ竿、もあります。この場合には、「なるみ」の方は「のうみ」「のみ」と通じて、nomi 祈る、と考えられるだろうか。チョット苦しい。 「鳴海」を「のうみ、のみ」と読むような実例が無いものか探索中です。

      ただ、播磨風土記賀毛郡雲潤里の条に、昔、「雲彌・うみ」と読んだ地名を、今(風土記を書いている時点)、「雲潤・うるみ」と読む、と言うような音の変化はあったようなので、これを応用すると、今(8世紀)の「なるみ」は、昔、「なみ」だった、と迄は行けそうです。

      猶、「うるみ」の読みは風土記解説者(20世紀)の読みであり、「うずに、うずみ」の可能性もあるようです。


    次に「ナルミ」に就いては地名を調べてみました。

    最初に調べたのは、福岡県北九州市西八幡区にある「鳴水川」(なるみ川)「鳴水町」 (なるみず町)でした。地図を開いてみると、なんと、その東隣に東八幡区「帆柱町」 があるではありませんか。上に書きましたように、アイヌ語で kaya は船の「帆」 のことで、これとつながりそうではありませんか。加えて、この地は、宗像の東へ、 20kM強の範囲です。

    つぎに出てきたのが、愛知県名古屋市緑区の「鳴海」町、です。ここでは、 上の様な発見はありませんでしたが、「古鳴海」のすぐ隣町を「野並」(のなみ) と言うのが見つかりました。「なるみ」と「のなみ」はもしかして同じ言葉か、 と思いました。

    のなみ、と言えば、島根半島の「野波(農波)」を連想します。それで、その辺りを探 索してみました。距離としては6kM程ですが、近場というには、山越なのですが、 松江市坂本町に「比加夜」神社があります。まぁ、風土記では、野波もこの神社も、同じ 嶋根郡に出てきますので、セットとしてメモして置きました。

    鳥取県東伯郡成美、は、いま赤碕に合併されましたが、手元の地図では、成美小学校が 確認できました。この赤碕町には、葺原神社、があります。「葺(シュウ・ふく)」は 「萱(かや)などを寄せ集める」ことで、「かや」と無関係ではありません。また、 神奈斐神社もありました。

    鳥取県西伯郡成実、は、いま米子市に合併されましたが、手元の地図では、成実小学校 として、名前が残ってます。(上記の「成美」と全く同じ状況です。。。)6kM程 北西に、なんと、「蚊屋」という字(あざ)でしょうか、町でしょうか、地名が見つかりました。

    参照した、平凡社世界大百科辞典、付録の日本地図の索引、には「なるみ」地名は、上記だけですが、この範囲では「なるみ」地名のそばに「かや」地名がある、と言えそう で、「かや」と「なるみ」が何となく対比できそうです。


    上述のように、カヤナルミ、の語義を出雲の「鳥鳴海神」と対比させて考えてみましたが、ウッスラと関連しそうでもありながら、確信は得られませんでした。しかし、こんな話をしている間にパソ通仲間から色々情報をお寄せ頂けたのは収穫でした。
    同好の士、通称どんたく氏から下記のお知らせを頂きました。

    延喜式神名帳の大和國高市郡54座の中に、カヤナルミを祀るとする神社が2つあるようです。

    (1) 飛鳥坐神社4座 並名神大。月次相嘗新嘗。
       鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神名備708・709
           (旧称:高市郡飛鳥村大字鳥形山)
       御祭神:事代主神、高皇産靈神、大物主神、天照皇大神、
           神南火飛鳥三日女神 等。
       由 緒:初め大穴持命、杵築宮に鎮り坐す時、法子賀夜奈流美神の法魂を
           飛鳥神奈備に鎮め奉った。
           淳和天皇の天長6年3月、高市郡加美郷甘南備山社を同郷鳥形山に
           遷し奉った。これが現在の鎮座地。
    
    (2) 加夜奈留美命神社
       鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字栢森字堂ノ上358
       御祭神:加夜奈留美命。加夜奈留美は、高照姫の一名だという。
       [注]高照比賣命:
          旧事本紀によれば、大己貴神の御子で、母は宗像の邊津宮に坐す
          高津姫神。
          古事記には、大國主神と多紀理毘賣命との間に生まれた高比賣命
          またの名下光比賣命がある。
          この下照姫命と高照姫命とは同一女神に坐すとする説がある。
    
    【参考図書】
     平凡社:大百科事典 昭和27年8月縮刷第1刷
     新人物往来社:日本「神社」総覧 平成5年4月第2刷(鎮座地のみこれを参照)
    
    
    【式内・飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社】 鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字稲淵字宮山698 明日香川が渦巻き滝つ瀬となっている様を神格化したもの。 【式内・加夜奈留美命神社】 鎮座地:奈良県高市郡明日香村大字栢森字堂ノ上358
    山峡に響く飛鳥川の川音を神格化したもの。 ながらくこの神社の所在地は不明であったが、石上神宮の宮司であった富岡鐵斎が 明治11年に県に書類と資金を提出し、復興した。

    享保19年(1734)に作られた「大和志」によれば、当時、現在地に所在した葛神 (クズガミ)という小祠を式内・加夜奈留美命神社と考証している。

    おそらく加夜奈留美(カヤナルミ)と栢森(カヤノモリ)の音が似通っていること によったのであろう。

    富岡鐵斎もこの「大和志」の説を踏襲したものと思われる。 しかし、この説は、出雲國造神賀詞に「加夜奈留美命を飛鳥の神奈備に祀った」と あるのと食い違っており、疑問が残る。

    [どんたく注:現在の葛神社の鎮座地は、高市郡明日香村大字阪田字宮地698]

    【ミハ山】

    出雲國造神賀詞に見える飛鳥の神奈備山の所在地については、従来種々論議されて きたが、橘寺の東南にあたるミハ山とする説がほぼ確定的となった。
    [岸俊男:「万葉歌の歴史的背景」 文学39巻9号]

    【飛鳥坐神社】

    現在の飛鳥坐神社は鳥形山に鎮座するが、日本紀略によると、天長6年(829)に、 高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社は、同郡同郷の鳥形山に遷っている。 即ち、ミハ山から現在地に遷った。 延喜式神名帳にある「飛鳥坐神社四座」は、この神社をさすものと思われる。

    【飛鳥神の後裔】

    「類聚三代格(ルイジュウサンダイキャク)」所引の貞観16年(10年か?)6月28日 の太政官符に、飛鳥神の後裔として天太玉・臼滝比女・賀屋鳴比女神の四社の名前 が見える。

    (3神しかいないのに四社とあるのは、櫛玉神が脱落しているものとされている) これから見ると、飛鳥神(飛鳥四社)と飛鳥神後裔の四社は別の神と考えざるをえ ない。

    従って後裔神である加夜奈留美命は、飛鳥四社とは別の所に祀られたこととなる。 これは、出雲國造神賀詞と合わない。

    【特選神名牒】

    「特選神名牒」では社伝をとって、飛鳥坐神社の祭神としては、事代主命、相殿に 建御名方命・高照比売命・下照比売命が祀られているとしている。 これも、出雲國造神賀詞と合わない。

    【和州五郡神社神名帳大略注解】(皇典研究所「神祇全書」所収)

    これは、文安3年(1446)に牟佐(ムサ)神社の禰宜であった宮道君述之が著した ものである。

    [どんたく注:奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内に、式内・牟佐坐神社がある。]

    これには、「飛鳥坐六箇處(ママ)神社四座」とあり、所在地は加美郷鳥形山尾前。 社家の和仁古連(ワニコノムラジ)の説によれば、祭神は、杵築大己貴命・神南火 飛鳥三日女神・上鴨味 高彦命・下鴨八重事代主命。 このうち「神南火飛鳥三日女神」がよく判らない。

    さらに注目すべき記述がある。

    本社の後南方にある磐石神窟はいわゆる飛鳥山前神奈備で、社家の者の説では、 高照姫命をを祀る茅鳴身(カヤナルミ)神社である。

    また、本社の東北方にある滝瀬神窟はいわゆる飛鳥川辺神奈備で、社家の者の説で は、臼滝姫命(高照姫命とも)、あるいは建御名方富命を祀るとしている。 境内のこの2神が加えられた結果、「飛鳥坐六箇處神社」とされているのである。

    飛鳥坐六箇處神社に宇須多伎比売命と加夜奈留美命が祀られているということは、 ミハ山が飛鳥の神奈備山として意識されそこに飛鳥四社が祀られていた段階でも、 この両神も祭神であったことを示しているのではなかろうか。

    以上、下記の参考図書から抜粋しました。

    【参考図書】
    井上光貞・門脇禎二辺:「古代を考える 飛鳥」 吉川弘文館 の中の、 「3.飛鳥の神々」(執筆者:和田萃)


    和田萃先生の言っておられるところをもう一度要約しますと、

    1. 現在の加夜奈留美命神社は、明治時代に富岡鐵斎が復興したもの。 しかしこれは、出雲國造神賀詞に「加夜奈留美命を飛鳥の神奈備に祀った」と あるのと食い違っており、疑問が残る。

    2. 飛鳥神(飛鳥四社)と飛鳥神後裔の四社は別の神。

    3. 飛鳥神後裔の四社は、天太玉・臼滝比女・賀屋鳴比女神、及び櫛玉神。

    4. 従って後裔神であるカヤナルミは飛鳥神(飛鳥四社)の中には入っていない。

    5. 加美郷鳥形山尾前に「飛鳥坐六箇處神社四座」があったという伝承があり、 ここでは、主神4神の他に、境内に加夜奈留美命と宇須多伎比売命とが祀られ ていたとされている。

    6. このことから見て、飛鳥坐神社(四座)には、主神4神の他に、後裔神である 加夜奈留美命と宇須多伎比売命を含め、合計6神が祀られていたのではないか。
    という趣旨のようです。

    このように考えると、出雲國造神賀詞に「賀夜奈流美命は飛鳥の神奈備に坐す」と あるのと、延喜式神名帳の飛鳥坐神社とは整合性がとれることになります。

    以上が、どんたく氏からのインプットの抜粋です。


    鳥越憲三郎著「原弥生人の渡来」(角川書店)を借りてきて読んだのですが、栢森の村 落の出入り口には、変わった注連縄があり、倭族の一支流であるアカ族のものと「同じ 流れが認められる」そうです。また、注連縄の話題では出て来ないのですが、同じく倭 族の別支流であるカヤ・カレン族ってのもあるそうで、例えば今でも使われている袈裟 衣式の衣服が豊中市出土の埴輪にも見られるそうです。(ははは、そうです、カヤ・カ レン族の「カヤ」が引っかかっております。。。)
    「別冊・歴史読本、事典シリーズ28」の「日本神社総覧」を見てましたら、吉備津神 社の所で、創建に関して三説ある、その一つとして、下記がありました。

    社伝によれば、吉備津彦命より五代目の加夜臣奈留美命が、吉備の中山の麓の 茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である吉備津彦命を祀り相殿に八柱 の神を祀ったのが吉備津宮正宮の始まりであるという。
    吉備津彦命が7代天皇孝霊の息子だとすると、カヤナルミその5代目と云う事は11代天皇垂仁の頃の人、と云う事でしょうか。カヤナルミを倭迹迹日百襲姫辺りの人と追い込んで行くには役立ちそうですが、大己貴命が飛鳥の神ナビに配置した、とはとても時 代が合わない話になりますね。

    岩波古典文学大系の日本書紀の補注(p579)に次のような記述があり、神南火飛鳥三日女神、との関連が気になってます。

    「吉野首部:・・・姓氏録、大和神別に『吉野連、加弥比加尼之後也、諡神武天皇行幸吉野、到神瀬、遣人汲水、使者還曰、有光井女。天皇召問之、汝誰人、答曰、妾是自天降来白雲別神之女也、名曰、豊御富、天皇即名水光姫、今吉野連所祭水光神是也。』とある。」

    白雲別神と聞いた事のない神様が出てきますが、「加弥」(カミ? カヤ?)、「比加尼」(ヒカニ?、ヒカジ?)、「水光姫」(ミヒカ姫)、豊御富(トヨミトミ?、トヨミホ?)なんてのも、私には初見です。

      丹後風土記残欠に「豊水富」と「イカリ」いう名前があり、それらとの関連があるのだろうか、何だろうか、と思ってます。丹後と吉野の関係ご参照下さい。
    紀記での神武天皇の条では「井光」「井氷鹿」が吉野首部の祖、となってますね。なんとなく男性だと思っていたのですが、「祖」ともあるし、姓氏録から見ても女性だったんですね。

    なお、「加弥」の「弥」の読みに関してですが、「彌」の略体字でしょうから、紀記・万葉の用例では「ミ(甲類)」と読むのが普通でしょうが、現代では「ヤ」と読みますね。いつ頃から「ヤ」に変わったのでしょうか。姓氏録の書かれた時代では、どうだったのでしょう、など知りたいものです。(なお、「神」の読みでは、カミの「ミ」には「微・未」等の乙類が使われてますので、「加弥」を「カミ(甲類)」と読んだとしても「神」の意味ではなさそうです。)

    「御富」の部分に関しては、アイヌ語 mike にも tom にも「光る」の意味があり、これを前半は音訳で「水」、後半を意訳して「光」に、「水光」としたのか、との推理はしております。


    なお、「かや」の音のある名前を列記して置きますと:

    「阿太加夜神社」 (出雲風土記、意宇郡)出雲神社リスト@#59
    「加夜神社」   (出雲風土記、神門郡)出雲神社リスト@#282
    「井草神社」(出雲風土記、飯石郡。三刀屋町伊萱の伊草神社)出雲神社リスト@#301
    「阿太加夜努志多伎吉比賣」 (出雲風土記、神門郡)
    「賀野里」 (かや)(播磨風土記、飾磨郡)
    「鹿屋野比賣神」 (古事記、野神の名前。岩波ではp58)
    「加悦郡」 かや、と読む、丹後の一地方 
    「草野灰」(かやのはひ) (陸奥風土記、八槻郷)
    「神石萱」(かむいしかや)(陸奥風土記、八槻郷)参照:神prefix
    「市鹿文」(いちかや)他、(景行紀)参照:景行紀の蝦夷
    「韓人山村等上祖 柞巨智賀那」(参考)(播磨風土記、飾磨郡)
    「賀奈良知姫」(参考)(先代旧事本紀p107、葛木土神の剣根命の娘)
    「うがや・ふきあえず」 (参考)
    「伊可古夜日女」(参考)(山城風土記。丹波国ノ神野ノ神、と)
    この内のどの「かや」が「加耶」と結びつくか、今後の検討になりますが、或いは、 これらの「かやリスト」から、加耶に拘らない何か共通点が引き出せるかとも、 眺めております。勿論、単に植物の名前、としてではなく。。


    かやなるみ・2
    Homepage & 談話室への御案内
    目次へ
    メールのご案内へ