久須婆・考・2

orig:2008/07/17

前項では、『古事記』に見える『久須婆の度』を今の淀川流域の「楠葉」のことであろうという現行の考えを踏襲しておいた。

しかし、この戦の話はもう少し詳しい。砕いておくと:

  • 「山代の和訶羅(わから)河」にて河を挟んで両軍が対峙して、相挑んだので
  • 伊杼美(いどみ)」という(今は{古事記編纂時?}は「伊豆美(いづみ)」という)、
  • 敵の将に矢を射させたら、味方の将にはあたらなかった。味方の将が射ったら敵将にあたり死んだ。敵軍は壊滅状態で逃げ散った。
  • 「久須婆の度」まで追いつめてこらしめたらクソが出て袴に付いた、それで「屎褌(くそばかま)」という(今、「久須婆」という)。
  • 敵軍を斬ったら鵜のように河に浮いたので「鵜河」という、
  • また、敵軍兵をはふった(散々に斬った)のでその地を名付けて「波布理曽能(はふりその)」という。
  • というのが全貌だ。

    ここで現代の地図を見てみると、楠葉から祝園(「波布理曽能(はふりその)」の比定地)だと直線距離で16kmほど。水路にせよ陸路にせよ30kmは下るまい。敗軍の逃走だからこれ位は逃げるのかもしれないが、「クソ事件現場」と「はふった場所」が離れすぎてはいまいか。少し考えてみる。

    「和訶羅」(日本書紀では「輪韓」と書く)という河名は今はなく、木津川の旧名だとされる。和訶羅河流域にはは、上文によると、伊杼美、という地があることになる。これは相楽郡の「水泉(ミヅミ)」とされる。(木津町、に比定されているようだ。「水泉」が「木泉」にでも誤読されて「き(い)づ(み)」とでもなったのだろうか。。。)

    「ワカラ」が何を意味するのかワカラないが、相楽(サガラカ)、和束(ワツカ)という近隣地名にひかれて

  • サガラ(カ) に対する ワカラ
  • ワツカ がアイヌ語の wakka 水 に相当するか
  • しからば、wakka ra 水・低いところ が ワカラになったか
  • ということを想っているところだ。

    これらが誘ってくれるのが、加茂町の「船屋」「草畑」だが、果たして古くからの地名なのか判らないので、この想いが想い以上にならない。つまり、ここ(草畑)が「クスバ」であり、その意味が「船で渡す」というアイヌ語 kuspa につながるか、ということである。

    そうならば、クスバ と ハフリソノ の距離は直線7km水路・陸路15kmほどとなる。

    話は戻るが本文中の「鵜河」については不詳、とされている。クスバを淀川の楠葉と考えれば、その南の「鵜殿」が候補となり得よう。


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