久須婆・考・2 |
前項では、『古事記』に見える『久須婆の度』を今の淀川流域の「楠葉」のことであろうという現行の考えを踏襲しておいた。
しかし、この戦の話はもう少し詳しい。砕いておくと: ここで現代の地図を見てみると、楠葉から祝園(「波布理曽能(はふりその)」の比定地)だと直線距離で16kmほど。水路にせよ陸路にせよ30kmは下るまい。敗軍の逃走だからこれ位は逃げるのかもしれないが、「クソ事件現場」と「はふった場所」が離れすぎてはいまいか。少し考えてみる。 「和訶羅」(日本書紀では「輪韓」と書く)という河名は今はなく、木津川の旧名だとされる。和訶羅河流域にはは、上文によると、伊杼美、という地があることになる。これは相楽郡の「水泉(ミヅミ)」とされる。(木津町、に比定されているようだ。「水泉」が「木泉」にでも誤読されて「き(い)づ(み)」とでもなったのだろうか。。。) 「ワカラ」が何を意味するのかワカラないが、相楽(サガラカ)、和束(ワツカ)という近隣地名にひかれて これらが誘ってくれるのが、加茂町の「船屋」「草畑」だが、果たして古くからの地名なのか判らないので、この想いが想い以上にならない。つまり、ここ(草畑)が「クスバ」であり、その意味が「船で渡す」というアイヌ語 kuspa につながるか、ということである。 そうならば、クスバ と ハフリソノ の距離は直線7km水路・陸路15kmほどとなる。 話は戻るが本文中の「鵜河」については不詳、とされている。クスバを淀川の楠葉と考えれば、その南の「鵜殿」が候補となり得よう。 |