「シキ」という語について考えてみる。まず、『時代別国語大辞典上代編』から幾つか拾っておく。
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上に見るように、磯城(師木)の語義を考えるときに、「重なる、敷く」という意味合いを考えるのは(一応)間違いである、ということを知る。(一応、と書いたのは、母音に甲類乙類の別があった、というのは定説ではあるが、異論無しともしないため) また、国語学の教えるところによれば、敷島の大和、と書くのは上代仮名遣いには反している、ということになる(敷、のシキのキは甲類である)。上代では、磯城島、志貴島、式島、之奇島、などの漢字が使われている。これらの「キ」は乙類を表している。 記紀、万葉集など奈良朝時代の文献で、甲類乙類の使い分けはかなり徹底している(だから、甲類乙類がある、という説が行われてきている。)しかし、それでも混乱があることはある。私が注目しているのは人名で「キ」に関して下記の混乱例があることである。
そこで、「シキ」に就いては、もしや、アイヌ語の si-ki 大・茅 が関連してはいないか、ということに興味がある。これについては「アイヌの大国主・考2」に述べたので参照願う。 この考えは更に「ワチ」という語に関しての展望を開くことにもなっている。ワチ・考も参照願いたい。(最近、「日本」の源は「曰本」で、それは「ワチ・モト」を表したものではないか、と追跡中である。2005/05) 更に魏志倭人伝の「弥馬獲支」と「ワチ」の関連を考えたものもある。 「弥馬獲支」と「ワチ」 さて、以上は「磯城」を「シキ(乙)」と読む前提(一般的である)で話を進めてきた。同じ対象を「師木」とも書いている例があるので、両立可能は読みは「シキ」となるからであろう。 「磯城」は「イソキ」であった、ということはないであろうか。 磯城、という地名は神武期、欠史八代、崇神、垂仁期に渡って伝えられている。ここで崇神の名は「みまきいりひこ・いにゑ」、垂仁の名は「いくめいりひこ・いさち」と読んで来た。「いにゑ」「いさち」の語頭の「い」は、漢字では「五十」と書かれているものと「印」「伊」と書かれているものがあり、両立可能な読み方として「い」が採用されてきてたものであろう。 「五十」は本来は「イソ」と読んでいたのではないか、という指摘をしている(拙著『初期天皇后妃の謎』)。両天皇とも皇宮の所在地は「シキ」である。 「磯城」を「イソキ」と読み、「五十」を「イソ」と読めば、天皇名の要素とその宮地の名が一致するのである。 これが原点だったのではなかろうか。そして「イソ」の意味は「海山の『幸』」のことである。「いにゑ→いそにゑ」はアイヌ語を援用すれば「幸・豊漁」であり「いさち→いそさち」は「幸・幸」である。(これも上記拙著に詳述した。)ここも参考になる。 |