丹後風土記残欠

陸耳御笠はこちら
丹後と吉野のつながり
orig: 96/03/15
rev1: 97/08/27 font, minor refinement
rev2: 98/09/07 丹後田造郷と吉野の関係/add.
rev3: 99/05/19 播磨風土記リンク:微修正
rev4: 2001/08/06 高倉下リンク
rev5: 2003/02/16 追記朱書
rev6: 2010/03/14 葦占山書換


丹後の風土記としては、岩波の日本古典文学大系の「風土記」に収録されている「逸文・丹後風土記」で「奈具社、天椅立、浦嶼子」の三条が載るものが有名です。

これとは別の古文書が残っていて、「丹後風土記残欠」、と呼ばれているようです。内容としては「巻首と伽佐郡の大部分を遺存するだけ」ですが、完本の体裁をしたものがあったのだろうが、それはなくなって、一部だけが残った。それで、残欠、と呼ばれています。中央に「官進」されたかどうかは不明のようです。

私はこれが出ている本(*)の存在をニフティのメンバーから教えて頂いていたのですが、95年4月に宮津市の籠(この)神社を訪れたときに販売されているのを見つけ、早速買い求めました。

(*)海部穀定著「元初の最高神と大和朝廷の元始」桜楓社。

さて、早速始めます。原文は漢文ですがカタカナの読みが振ってあるので、比較的、現代文で読み易いので、小生が現代風に読んで行きます。

【】内がそうやった小生の読みです。


【当国は昔、天火明神たちが降臨した地である。丹後の國は本は丹波の國と 合わせて一国であった。『日本根子天津御代豊國成姫天皇』の御宇に、丹波国の五郡を割いて丹後国を作った。】
(『』は、引用者がつけた。)
天火明と饒速日は同一神である、と一般に理解されていますが、天火明が降臨したのが丹後、ニギハヤヒが降臨したのが「河内國河上哮峯」(先代旧事本紀)とすると、天火明とニギハヤヒが同一神である、とするのも単純ではなさそうです。

「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(先代旧事本紀)なんて長い名前になっているのも、二つの神格が習合してしまったのか、同一神が丹後に降臨して、後に河内へ降臨したのか、(その逆?)とかの可能性も考えられます。 また、古代に於いて(紀記や風土記などを書いていた頃)既に判然としなくなっていたと言うこともあるのでしょうか。

『日本根子天津御代豊國成姫天皇』(元明天皇)の御宇、丹波の國から、伽佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割譲して丹後の國と制定したと云うことを述べています。西暦713年のことと思われます。

【丹波という名前を付けた理由は、昔、豊宇気大神が当国の伊佐奈子嶽に天降されたとき、天道日女命たちは、この大神に五穀と蚕などの種をお願いした。その嶽に真名井を堀り、それで潅漑して水田陸田を定めて植えた。秋には『垂穂八握莫々然甚快也』大神はそれをご覧になって、大喜びされて曰く、『阿那而恵志(アナヱエシ)、面植弥志与田庭』。そして大神は再び高天原に登られた。それで田庭と云うのである。丹波、旦波、但波、など全て、多爾波と読む。】
「伊佐奈子嶽」がどこに比定されているか、小生には読み切れて居ないのだが、少なくとも「磯砂山661m」が京都府中郡峰山町にある。

『垂穂八握莫々然甚快也』という表現がありますが、これは、日本書紀の神代上第5段(第11の一書)に「其秋垂頴、八握莫莫然、甚快也」とあり、殆ど同じ表現、表記です。但し、この発言をしたり、農業、養蚕を始めた主人公が書紀では天照大神、ここでは、豊宇気大神、と異なっています。

天道日女命はニギハヤヒが天に居たときに娶った女性とされていますが、丹後にも来ていたのですね。播磨風土記託賀郡荒田条に「道主日女命」が登場します。同一神かどうか、不明です。「道主」と云うと、天照大神と素戔嗚尊のウケヒで生まれた宗像三女神を「道主貴(ちぬしのむち)」と日本書紀(第3の一書)に書いてあるのも連想されます。

『アナニヱシ』はイザナギ/イザナミの求愛の段でも『阿那而恵夜、アナニヱヤ』とあるのと同じ言葉でしょう。『面植弥志与』の部分は小生には意味不明。なお、『面』は原本では「而」、『与』は「子」とあったのを異本により改訂したとあります。が、何れにしても意味が判りません。。。


これにに続く部分では、丹後国の大きさ、東西南に接する國の名前、産出物は一杯あるので省略する事、などが書かれています。

次いで、丹後国を構成する五郡の名称が紹介されてます。次に、「郷」は総計38、「里」は97、「余戸」は2、神戸は4、あること。神社は135座あり、その内65に「在神祇官」と書かれています。「在神祇官」の意味ですが、岩波版の出雲風土記の P95 の頭注24では、神社台帳に登録されている式内社の意味、としていて、いわゆる神主が居るとの意味ではない、ように書いてあります。

五郡の名称には、本(もと)の用字が書いてあるのでリストしておきます。

伽佐(笠)、与佐(匏)、丹波(田庭)、竹野、(以前と変わらず)、熊野(以前と変わらず)、の以上5郡です。
いよいよ、加佐郡内の記述です。
【加佐郡には郷が9、余戸1、神戸が1、里(以下虫食)
 志楽郷 (本字 領知)
 高橋郷 (本字 高椅)
 三宅郷、
 大内郷、
 田造郷、
 凡海郷、
 志託郷 (本字 荒無)
 有道郷 (本字 蟻道)
 川守郷、余戸、神戸】
次いで加佐郡にある神社35社がリストされてます。何々社、とありますが、「社」を省略します。また、一行に2社宛が記載されてますが、ここでは、ベタに並べます。
【神社合丗伍座  青葉、天蔵、山口坐祖母、日尾月尾、志束、大倉木、御田口、河辺坐三宅、鳴生葛嶋、同将軍、杜坐弥加宜、高田、倭文、砧倉、手力男、日原、出雲、伊加里姫、笠水、笶原、伊吹戸、十二月栗、石崎坐三輪、凡海坐息津嶋、凡海息津嶋瀬坐日子(これだけ一行に一社)、大川、伍蔵、布留、船戸、伊知布西、麻良多、水戸、奈具、神前、気比、劒、阿良須 拾壱坐在神祇官】
末尾に、どんたくさんから頂いた、式内11社の所在地リストがあります。
【伽佐郡の字は本は郡の字を使っていた。宇気乃己保利(うけのこほり)と読んだ。宇気と読む所以は、昔、豊宇気大神、田造郷笶原(ヤブ)山に留まりまして、人民たちはその恩頼(みたまのふゆ)を受けたからである。それで、宇気と云う。笠は、また、伽佐と読む。よって、今、世に誤って、伽佐の己保利と云う也。】
つまり、以前は「笠」と書いて「ウケ」と読んでいた。「笠」は「カサ」とも読むので、今ではカサのコホリと間違えて読んでいる。と云う訳です。以下にも「笠」を「ウケ」と読む例が出てきますが、他に例を知りません。この郡名に特有な読み方、或いはこの書物に特有な読み方、と思われます。(何故そう読めるのか? 参考:稲荷・考)

「みたまのふゆ」、時代別国語辞典には:おかげ。神または天皇の加護・恩徳をほめていう、とある。


加佐郡にある9郷に就いての記述が始まります。最初は、志楽郷、です。

【志楽郷 本字 領知(しらく)
志楽と名付ける理由は、昔、少彦名命、大穴持命が天下を治める所を巡覧し、此の國を全部巡ってしまって、更に、高志の國に到った時に、天火明神を召して、仰るには、『汝命はこの國をしらすべし』と。火明神、大いに喜んで、『永母也青雲の志良久国(ながくもや、あおくもの、シラクのくに)』と云った。それで、志楽、と云う。】
天火明神は少彦名命と大穴持命からの命令で領地を与えられた、と言う注目に値する記述がある。[2003/02/16追記]それも「越」の国を与えられたように読める。(天火明命がニギハヤヒと同じと考えれば、その子、カゴヤマが「高志神」とされることともつながって来る。)

なお、後段でも、少彦名と大穴持が火明神に命令するところが出てくる。

これは、播磨風土記が飾磨郡の条に「大汝命之子 火明命・・・」という変わった記述があるが、それに類似した伝承・理解の様に窺える。

[2003/02/16追記]「青雲」は「白肩」に掛かる(青雲の白肩の津)という(時代別国語辞典)。「白」に掛かる、としても良さそうである。或いは、ここの「シラク」は本来「シラカタ」であったであろうか。

次いで、志楽郷内部の地誌です。

【(志楽郷)青葉山は、一つの山であり東西に二つの峯がある。名神(みょうしん)が在る。共に、青葉の神と名付けている。その東に祭る神は、若狭彦の神、若狭姫の神、の二座。その西に祭る神は、笠津彦の神、笠津姫の神、の二座である。これが、若狭国と丹後国の境であり、笠津彦神、笠津姫神は丹波国造、海部直たちの祖先である。二峯とも松柏が多い。秋にも色が変わらない。以下一行虫食い】
『笠津彦/姫』に「ウケツヒコ/ヒメ」のフリカナあり。「笠」を「ウケ」とも読む話は、加佐郡(全体)の所を参照。

>>高浜町(福井県)と舞鶴市(京都府)との境界に「青葉山」があります。
>>緑に包まれて、東西に二つの峯がある、この辺りでは目立つ立派な山です。
「青葉山」の二つの峯には今も祠があるらしい。
(上3行、どんだくさんの報告を引用)

【(志楽郷)甲岩(かぶといわ)は、古老の伝えて曰く、祟神天皇の御代に、この国の青葉山の中に『陸耳御笠』と云う者あり、人民を賊(損なう)。それで、日子坐王が勅を受けてこれを征伐に来た。丹後国と若狭国の境に到り、鳴動以顕光燿。忽然。有巌石。形は金甲(かぶと)に似ている。よってこれを将軍の甲岩と名付けた。また、その場所を鳴生(なりふ)と云う。】
陸耳御笠(くがみみのみかさ)征伐に関しては古事記(崇神記)にも「玖賀耳之御笠」と言う漢字表記で登場し、簡単に触れられているが、この風土記残欠では、今少し詳しく述べられている。先のお楽しみ。

青葉山の北の海岸の「成生(ナリウ)」という所に「鳴生神社」があります。(この1行、どんだくさんより)

【(志楽郷)川辺坐三宅社 以下三行虫食い
(志楽郷)御田口の祠は、昔、天照大神の分霊と豊宇気の大神が引き続き 此の地に居られた時、丹波国造日本得魂命たちが、この地の入り口の御田を 奉った。更に、校倉を建てて、其の穀物の実を保存した。それで、阿勢久良 と言い、また、その倉を崇めて、御田口の祠と称した。】
日本得魂命は、饒速日−天香語山(1)−天村雲(2)−と降って行って8代目。
加佐郡志楽郷の地誌の続きです。

【(志楽郷)二石崎は、古老の伝えて曰く、昔、大己貴命と少彦名命が天下を平らげて治めていた時に、此の地に到り、二神が相談した。白と黒の繊砂(細かい砂)を手に取って、天火明命を召して、詔して曰く、此の石は吾が分霊である。汝命よろしく此の地に祭るべし、と。これにより、天地共、波浪が荒れた時でも国内を襲ったことがない。天火明命は詔勅に従って、その霊石を崇めた。左右に黒白に分かれて、神のしるしがある。今も変わらない。それで、その地を二石崎(二石を不多志と読む)後世土俗に「瀬崎」と云うのは誤りである。】
まぁ、砂を取って石と云うのも解せないが、とにかく、出雲勢が天火明命に、詔(みことのり)をする、というのがとても新鮮(!)に思える。。。

志楽郷の冒頭に出てきた表記は、大穴持。此処では大己貴。また、少彦名と順序が逆になっていることも多少注目される。同様に、前では、天火明神、此処では天火明命。志楽郷冒頭参照。

舞鶴湾を出て、日本海に面した所に、「瀬崎」という地名があります。(この一行どんたくさん報告)

【(志楽郷)枯木浦は、昔、少彦名大神と大己貴大神の二柱の神が国を造ろうとした時に、海路にある諸島を順次習合させようと思われて、笠松山の嶺に登って、息の限りに『彼来、彼来』と呼んだ。そして、四嶼は自ら来て列をなした。それで、彼来、と云う。】
これは、国引き説話の丹後版、ですね。。。 出雲では「国来、国来」だった。出雲で国引きした神は、オミヅヌの神だが、引っ張ってきた国の数は、、と同じだ。

【(志楽郷)春部村 以下二行虫食い
(志楽郷)大倉木の社 祭 神 国造 以下三行虫食い】
以上で、志楽郷の記述が終わり、高橋郷に移ります。
【高橋郷 本字 高梯
高橋と名付ける所以は、天香語山命が倉部山の尾上に於いて神庫を建てて、色々な神宝を蔵していた。長い梯を設けてその庫に到り料と為した。それで、高梯と云う。今猶、峯の頂きには神祠がある。天蔵と称する。天香語山命を祭る。亦、その山口の■■岡に祠有り。祖母の祠と称す。此の国に天道日女命と称する者あり。老齢になり此の地に来た。麻を績ぎ、蚕を養い、人民に衣類を製る道を教えた。それで、山口に坐す御衣知(みそしる)祖母(とじ)の祠と云う。】
先代旧事本紀(p106)では、天香語山は天道日女と饒速日が天でもうけた子ども、とされており、異名に「手栗彦命、高倉下」がある。神武記での「高倉下」と同一人物であろうが、ここの伝承との関連が注目される。 ■は、欠字。参照「高倉下」

「その庫に到り料と為した」は意味が取れません。或いは「長い梯子で、その倉庫に行って、適宜、宝物などを取出して、神様に供える料(品物)とした。」ってな事でしょうか。

【(高橋郷)与保呂乃里 本字 仕丁】
意訳:豊宇気大神が神人仕丁(よぼろ)を此処に置かせたので此処をヨボロと言う。

【(高橋郷)日尾社 祭神 天日尾神、国日尾神、天月尾神、国月尾神 四坐祭田・・・以下虫食い】
どんな神様なんでしょう、、、これらは。。。

【(高橋郷)庫梯山(くらはしやま) 倉部山の別称なり
倉梯川 水源 以下虫食い
長谷山の墓 大倉木 以下虫食い
彌加宜社は、昔、丹波道主の祭り給う所なり。以下一行虫食い
杜の中に霊水あり、世に名付けて、杜清水、以下虫食い】
東舞鶴の東側に「倉梯山」があります。

その北側を流れる川が「祖母谷川」。その北岸に「溝尻」(参照:高梯の、みそしる、御衣知祖母)という地名があります。さらに上流には「山口神社」があります。倉梯川の南側を流れる川が「与保呂川」。その上流のバスの終点「与保呂神社前」に「日尾池姫神社」があります。(以上4行どんたくさん報告)


・弥加宜(イヤカキ)神社

結構、読み方にも諸説ありそうですね。これは、高橋郷の条では「みかげ」と振りがな(by海部穀定、でしょう)があります。「御蔭」という社名もちょいちょいあるので、「みかげ」で良いのでしょう。なお、「宜」の字は、推古遺文では(その時代では)「ガ」とか「カ」と読んだそうだし、先代旧事本紀の国造本紀には「加賀」の国を「加宜」と書いてあったりするので、「加賀の国のイヤ栄えること」なんかを念願した「いや・かが」かも知れない、とは妄想でしょうか。。。(出雲御陰大神、播磨風土記揖保郡意此川条、は通行人の半数を殺生する、という「荒神」の性格がある。)


・与保呂川の水源が「養老山」にあるようですが、
 この山名、養老、は、「ヨホロ」が訛ったみたいですね。
【大内郷と名付けた所以は、安康天皇の御代、市辺王子たち、億計王と弘計王、が此の国に来た。丹波国造稲種命たちは秘かに安宮を作って奉仕した。それで、その旧地を崇めて大内と名付けた。その後*、亦、与佐郡真鈴宮に移し奉った。以下3行虫食い】(*「その後」に訂正 99/5/19)
稲種命は饒速日−天香語山(1)−天村雲(2)−と降って行って12代目。

【高田の社、祭神、建田勢命なり。是丹・・以下一行虫食い】
建田勢命は、同上、6代目。

【爾保崎と名付ける所以は、昔、日子坐王、勅を奉じて土蜘蛛を逐いはらう時に、持っていた裸の剣が塩水に触れて錆びた。そこへ、ニホ(鳥)が並び飛んで来て、その剣に貫き通されて死んだ。これにより、錆が消えてもとに戻った。それで、その地を爾保と云う。以下五行虫食い】
ここの「土蜘蛛」も「陸耳」のことであろうか。陸耳のことは但馬故事記にもあるそうだ。 「裸の剣」と云うと、垂仁紀にある石上神宮に記述に、五十瓊敷命、が作った千口の剣の名前、川上部、別名、裸伴(あかはだかとも)、を想起する。出雲の「赤秦神社」は、関係有るのかどうか判らない。

ニホは「丹生(神社)」等というのと同語であろうか。。。なお、使われている漢字がとても特殊なので(鳥ヘンの難字)「ニホ」とカタカナで逃げてあります。

【十二月栗神(しはすくりのかみ)。祠無し。木を祭って神と称す。古老伝えて曰く、昔、稚産霊神が植えたところ毎年12月1日に花が咲き同月20日に実を結ぶ。正月元日にその実を取って、大神に奉る。その慣習は今でも続いている。 神のしるしであろう。】

【田造郷、と名付けた所以は、昔、天孫降臨の時、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が当国の伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に大神を祭り、新嘗をしようとした。井(戸)水が忽ち変わって、炊事が出来なくなった。それで、泥(ヒヂ)の真名井という。ここで、天道姫命は葦を抜いて大神の心を占った。それで、葦占山と云う。ここに、天道姫命、弓矢を天香語山命に授けて、詔っていわく、汝、その矢を三度放ち、矢の留まった所に必ず清い土地が有るであろう。(香語山)命は、詔を受けてその矢を放った。(矢は)当国の矢原山(ヤブやま)に到った。その時、(その山には)根、枝、葉、が青々としていた。それで、その地を矢原(矢原訓屋布)。即ち、その地に神籬を建てて大神を遷し祭った。そして、初めて、懇田を定めた。

(細字注)まさに、南東3里ばかりにあたる。霊泉湧き出る。それで、天村雲命はその泉で潅漑(6字虫食い)荒水以和。それで、その井を名付けて真名井と云う。(以下可有脱文)与佐郡(以下可有脱文)亦、傍に天吉葛が生えている。その匏(ヨサ)を以て、真名井の水を盛り神饌を調度して進めた。長く大神を奉る。それで、真名井の原、ヨサの宮と称する也。】

泥(ヒヂ)の真名井:比治山中であろう。なお、播磨風土記宍禾郡にも比治里がある。伽佐郡(全体)の条では、笶原山、と書いてヤブヤマと読ませていた。

なお、宮津市の籠(この)神社の裏手に真名井神社があり、移動先をここに比定しているのだろう。

矢を3度放つ:「天道姫命、弓矢を天香語山命に授けて、詔っていわく、汝、その矢を三度放ち、矢の留まった所に必ず清い土地が有るであろう。(香語山)命は、詔を受けてその矢を放った。(矢は)当国の矢原山(ヤブやま)に到った」という上記は、播磨風土記(宍禾郡御方里条)の葦原志許乎命と天日槍命の国占め説話が類似している。その話+αはこちら。

天孫降臨の時:とはニニギの降臨であろうか。それと同時期に、天香語山、天村雲が天降って来たと云う事になる。この二神は、ニギハヤヒ(=天火明?)と天道日女の子、孫である。ニニギとニギハヤヒが兄弟で、ニニギが生まれたばかり(?)で降臨して来たときに、その兄弟には、子、孫が居た、とは、時代がチトおかしいか。

葦占山:葦占氏(葦浦氏)との関連がある地名であろうか。(この行書き換え 2010/03/14)

(ヨサ)。ひさご、瓢箪のことだが、小林恵子さんは、辰韓で、ひさごを朴と云う、事あたりから、赫居世、脱解、瓠公、と日本との関連を論じている(二つの顔の大王 P38)

天吉葛:こんな所でお目にかかるとは思わなかった。書紀で、イザナミがカグツチを生んで亡くなる時に、生まれた三子の一。(則ち、ミツハの女、ハニ山姫、天吉葛、{アマのヨサツラ、または、ヨソツラ})

【稲種を四方にあまねく蒔き施し、人民が豊かになった。それでその地を田造と云う(以下四行虫食い。)】
【笠水訓字宇介美都(笠水をウケミヅと訓む) 一名、真名井、白雲山の北郊にあって、清いこと麗しい鏡の如し。けだし、これは豊宇気大神が降臨した時に当たり、■■湧き出た霊泉である。その深さ3尺あまり。その周囲は122歩。日照りにも涸れず、長雨にも溢れず。いつも増減しない。その味は甘露のようで、万病を癒す力がある。傍に、祠が二つある。東は、伊加里姫命、或いは豊水富神と称す。西は、笠水神即ち、笠水彦命笠水姫命、の二神。これは、即ち海部直たちの斎きまつる祖神である。以下虫食い5行】
伊加里姫:どこかで見たような名前です。神武紀の「井光」です。 吉野の「井光(ikari)」との関連をご覧ください。

    「伊賀里ノ命」が常陸国風土記逸文(賀久賀鳥)に見える。
    「伊可古夜姫(鴨建角身の妻)」「伊加曾然(出雲神門臣)」
    「伊香刀美(近江風土記逸文・伊香小江)」
    らの「イカ」名、も興味のある名前グループではある。
ここにも「笠」を「ウケ」と読む、との記述がある。

西舞鶴に「笠水神社」があります。(どんたくさんによる)


【凡海郷(おほしあま、の、さと)、は昔、田造郷の万代浜から43里あり、 ■■から35里2歩あり、四面皆海に面し、一つの大島であった。 凡海と称する所以は、古老が伝えて曰く、昔、天下を治めるに当たり、 大穴持命と少名彦命が、この地に到った時に、海中の所在する小島を弾き 集めたとき、潮がすっかり涸れて一つの島となった。それで、凡海という。 (さて、)時に、大宝元年(西暦701)三月己亥、地震が三日続いた。 この郷は一夜にして蒼海となった。ようやく、わずかに、郷中の高い山 二峯と立神岩が海面の上に出た。今、名付けて、常世嶋、亦、俗に、 男嶋女嶋と云う。嶋ごとに祠がある。祭る所の者は、天火明神と日子郎女 (いらつめ)神なり。これは、海部直及び凡海連たちの斎き祭る祖神で ある。 以下8行虫食い】
古代の地震に就いて述べた本があったようだが、この地震のことが出ているだろうか。

701(大宝1年)「3月26日 丹波国地震三日」とある。(続日本紀・巻2)

常世嶋:舞鶴市北、丹後半島東海上の、大島(冠島)小島(沓島)がこれらに比定 出来るのであろうか。。。冠と沓を脱いで常世に往く、ってのは道教の考えの由。

ここにも、出雲勢の「治天下」と国引きのバリエーションが見られる。小規模だが。

【志託郷 本字 荒蕪。志託と名付けた所以は、昔、日子坐王が官軍を 以て陸耳御笠を討伐しようとしていた時、青葉山から逐い落として、 この地に到った。そこで、陸耳は、稲梁の中に潜行し隠れた。王子は急いで 馬をその稲梁の中に進めて、まさに、(陸耳を)殺そうとしたとき、 陸耳はたちまちに雲を起こして空中を南へ走り飛び去った。ここで、 王子は稲梁をメチャクチャに壊して(甚侵)稲梁を、為荒蕪(したきます)。 それで、その地を荒蕪(したき)と云う。 以下14行虫食い】
まぁ、良く見られる地名俗解ではあるが、日子坐王の陸耳退治の話としては、 志楽郷甲岩の条も併せ、多少詳しい様子を知ることが出来る。また、川守郷にも 出てくる。

「官軍」なんて字はこんなに古い用字なのだろうか。。。

なお、御笠へのフリガナは「ミカサ」となっているが、「笠」を「ウケ」と読む 例に倣うと「ミウケ」と読む説も有り得そうだが、お目にかかっては居ない。。。 (参考:景行紀に土賊で「耳垂」と云う名前の者が「御木(みけ)」の川上に居る との記述も音の近さから興味をひく。)耳垂の話

(参考:アイヌ語で「耳」は「kisar」、「カサ」と近いと云うか、遠いと云うか。 kisar は「葦原」をも意味するので、 rikun-kisar(高所にある・葦原) →「陸耳」との翻訳の可能性もある)

由良川流域西岸、舞鶴市内に「志高」が見える。

【有道郷 本字 蟻道。 有道と名付けた所以は、昔、天火明命、飢えて 此の地に到った時に、往くままに(道々)食料を求めて、蟻に連れて往か れて、穴巣の国を見た。因って、天火明神は食料を求めた。その時、 土神は喜んで盛大にもてなした。それで、天火明命は土神をほめて、 今後、汝は蟻道彦大食持ち命、と称するように、と云った。それで、 蟻道(ありぢ)と云う。亦、蟻巣と云う神祠がある。いま、阿良須と 云うのは訛(なまり)である。 以下七行虫食い】
【川守郷。  川守と名付ける所以は、昔、日子坐王、土蜘(つちくも) 陸耳匹女(ひきめ)たちを逐って、蟻道郷の血原に到ったとき、先ず、 土蜘匹女を殺した。それで、そこを血原と云う。その時、陸耳は降伏しよう としたが、日本得玉命が川下から追って来て、まさに迫ろうとした時、 陸耳は忽ち川を越えて逃れた。それで、官軍は楯を連ねて川を守った。 矢を放つこと蝗の飛ぶが如し。陸耳の党、矢当たりて死ぬ多し。(死体 は)流れて去る。それで其の地を、川守と云う。亦、官軍の駐屯地を 今でも川守楯原と云う。その時、船一艘が忽ちに(欠字、字数不明) 其の川を降った。これで、土蜘を駆逐した。遂に、由良の港に到った。 土蜘の行方が判らなかった。そこで、日子坐王は陸地で礫を拾い、 これを占った。それで、陸耳が与佐の大山に登ったことを知った。それで、 其の地を石占と云う。亦、その船を楯原に祭って船戸神となづけた。 以下虫食い三行。

大雲川:以下虫食い8行
奈具 :以下虫食い
奈豆 :以下虫食い】

川守:河守という地名は加佐郡大江町に見える。陸耳の記事らしいもの、もうひとつ。どんたくさんに拠ると、左岸に「阿良須」があります。

由良:由良川の河口は舞鶴市と宮津市の境、上流に向かって、舞鶴市、大江町、 福知山市を流れている。

石占:由良川河口付近に「石浦」がある。

駆逐:ここでの意味は「追いかけた」程度の意味で、討伐し終えたのではなさそう。
与佐の大山:大江山のことか?

大江町の由良側右岸に「千原」があります。
大江町「河守」の隣に「蓼原」があります。(以上2行どんたくさん)

此の後には西暦1488、1608、1709年に複写(臨写)したなどとの 複写時の奥書があるが、オリジナルの奥書はない。

これで終わりです。


●原田実氏が「歴史Eye」94/8号に「但馬国司文書が語る三丹世界の謎」で 紹介されている「但馬国司文書」に、この「丹後風土記・残欠」と酷似する 物語がある。例えば、天火明命はオオナムチの勅を受けて高天原から丹波 比治に下った、とか、丹波加佐志楽国で同国を大己貴命から授かった、とか、 「垂穂稲、甘美稲、野面に狭莫莫然」とか、更に、陸耳討伐の話にも類似の ストーリーがある。両文書の比較検討も興味ある課題に思われる。

同氏に葉書でお尋ねしたところ、両文書(但馬国司文書と丹後風土記・残欠)に 「何らかの関係があること、充分推定できると思います」とのことでした。

また、「但馬国司文書」は、新国民社刊行の「但馬故事記・竹内文書」として 15年ほど前に発行されたものがあるそうです。


どんたくさんからのお知らせ。
以下、これら加佐郡の式内社11社の現在の社名・鎮座地をリストアップします。

奈具神社:
  宮津市由良宮ノ上3537。
 ※宮津市の由良川河口西側約1.5km。
伊智布西神社(延喜式では伊知布西神社):
  舞鶴市岡田上字桑飼下杉ケ迫。
 ※舞鶴市の中で、由良川の一番上流に近い右岸。
彌加宜神社(延喜式では弥加宜神社):
  舞鶴市森井根口871-7。(注:東舞鶴の中央西)
倭文神社:
  舞鶴市池内今田字宇津ノ上。
 ※舞鶴を流れる伊佐津川の上流の池内川右岸。海岸から約5km。
高田神社:
  舞鶴市上安字中イナキ899。(注:西舞鶴の東北)
大川神社(名神大):
  舞鶴市大字大川字徹光山169-1。
 ※由良川左岸。海岸から約8km。
阿良須神社(延喜式では阿良[サンズイ+頁]神社):
  加佐郡大江町北有路高畑461。(注:由良川左岸)
  舞鶴市小倉字フル宮13。(注:東舞鶴の東。付近に志楽小・志楽局がある)
笑原神社(延喜式では笶原神社。「笑原」はミスプリント?):
  舞鶴市紺屋町29。(注:西舞鶴、高野川左岸)
麻良多神社:
  舞鶴市丸田字宮ノ谷141。(注:由良川左岸、大川神社の下流)
三宅神社:
  舞鶴市北吸字糸212-5。
 ※東舞鶴にある舞鶴市役所の南約200m。
日原神社:
  舞鶴市高野女布(ニョフ or ニョウ)字日原353。
 ※西舞鶴の南西。海岸から約3km。
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