私註・神武紀・茅渟考

orig: 98/05/03


本稿では、神武紀に記載されている諸賊の征討戦に出てきた「茅渟」という地名に就いて考えてみます。

神武紀には、神武軍はクサカ(クサヱ?)での長髄彦との戦いから逃れ、母木邑のエピソードを挿んで、「茅渟山城水門(別名、山井水門、茅渟を智怒{チヌ}という)に到着した」という記述があります。

「茅」の音はミョウとかボウ、訓で「チ」とか「チガヤ」があるわけですが、「カヤ」だけでも良いのに「チガヤ」と言ったり、単に「チ」とも言うようです。

「茅・萱」という植物に関してはアイヌ語では幾つかの呼び方があります。

ki禾本科草本の茎、稈;とくに茅(以上、知里真志保)カヤ、カヤなどで作ったすだれ(中川裕、萱野茂も同様)
kisar葦原(萱野茂)
sarkiヨシ、アシ(稀・雅語)(萱野茂)
sar葦原;湿原;沼地;泥炭地;やぶ、しげみ(以上、知里)草の茂っているところ(中川)

この ki と「チ」が縄文語から後の和語に入った(借用なのか同源なのか)のではなかろうか、と思われます。

次いで、「渟」ですが、日本書紀では「怒」と読め、と書いてあり、これは「ヌ」と読め、ということです。この音の周辺で関係のありそうなアイヌ語を拾ってみます。

nut川が一様の深さでゆるやかに流れている所;とろ(知里)
nutap川の湾曲内の土地・・(知里、中川、萱野も同様。)
nup野、野原、原野、はらっぱ(萱野茂、知里も同様)泥炭の原野(知里)野原、平地(中川)
nup-sarカヤ原(知里)

上記から、チヌ、は ki-nup (葦原)と強い関係にある言葉ではなかったでしょうか。

鬼怒川のキヌも関連するかもしれませんね。


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