大年神と疫神 |
疫神社、疫隅神社、天疫神社、は大抵スサノヲが祭られているようである。スサノヲには疫病を払って貰う御利益があると信じられている。 さて、崇神5年紀では「疾疫により人口の半ばが死亡した」という記事がある。よほどの伝染病であったのではなかろうか。そして、その原因は大物主神が祟っていた、ということになる。また、倭大国魂神も祟っていたらしく、その二柱の神を、それぞれ、祭ることによって疫病は消滅して国内平穏になった、とある。 話は変わってアイヌの方では天然痘、疱瘡を pa と言う。この病気は pa kor kamuy 即ち 疱瘡を・もつ・神 が訪れると罹る、と考えられている。実際この神は、apkas kamuy (歩行する神、遊行する神、巡り神)とも paykay-kamuy, payoka-kamuy (旅行する神)などとも言われる。また、「疱瘡神を一種の渡り鳥の姿に於て観じている」(知里真志保・分類アイヌ語辞典・ほおそお@p361)そうで、同辞典によるとかのバチェラーさんの収集にも pa koro chikappo(疱瘡を 持つ 鳥)という語彙があり、群れをなして来る渡り鳥で「悪い病気」をもたらすという。 その語彙 pa は実は「疱瘡」の意味以外にも幾つかの意味がある。「頭」「煙、湯気」「口(くち)「年(歳)、季節」である。また、動詞に後置されて、その動詞を複数化する機能がある。動詞の複数、とは、主語が複数の場合も、目的語が複数の場合も、また、行為自体が複数回繰り返されることも含む。 一方、除疫の御利益のあるスサノヲのこどもに「大年神」がある。pa kor kamuy (年・歳を 持つ 神)の翻訳ではなかろうか。また、大年神の子には「大国御魂神」(崇神天皇が除疫のために祭った神)がある。 長い間、大年神は穀類の神様として崇められて来たが原義は「年を司る神」、pa の同音異義によって「疱瘡の神」だったのではなかろうか。その祟りを鎮めるために崇神天皇は出雲系の神様を祭った、と読むのは如何であろう。 こう考えると「サイの神」が村と村を「サヘギル(遮る)」神というよりは「年の神、歳の神」と捉えれば好いように思われる。アイヌが疱瘡神を退けるための祭儀にも村の端にイナウを並べ立てるものがある。(p384) 大年神の配偶者は「天知迦流美豆比賣」(あめ・ちかる・みづ・ひめ)とある(古事記)。この「知迦流」を chikap rup と解けば「鳥の群れ」である。毎年季節ごとに疱瘡病を運んでくる、とアイヌが考えている鳥の群れである。pa kor kamuy (大年神)と chikap rup (鳥の群れ)とは大変なカップルである。 疱瘡神の異名の一つに「眷族の多い神」というのもある。大年神もなかなか眷族が多く、少なくとも矛盾はしない。 大年神と天知迦流美豆比賣の間に10人の子があるが、その一に「波比岐神」(はひき・の・かみ)がある。上記の考察を延長してくると、この神名の「波」が pa であるかもしれない、と思い至る。しからば「比岐」の方はどうなるであろうか。まだ、しっくり来る解に至っていないが、pichi (のがす)(アイヌ語に於ける母音調和P209)の周辺を模索中である。この語の用例が、また、この語自体が他の辞書で見当たらないのである。 参考: こうしてみると疋野神社に残る長者伝説にもモチーフとして「白鷺」と「湯煙」があり「鳥」と「疱瘡神」のモチーフとの類似が指摘できそうである。 その後、岸和田市にも「波比岐神」を祭っている神社が見つかった。
足羽神社[あすわ]「繼軆天皇、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神 合 大穴持像石神、事代主命、少彦名命、柿本人麿、耳皇子、武小廣國押楯命、宇多天皇、天國排開廣庭命、素盞嗚尊」福井県福井市足羽1-8-25 温泉は日本中にありそうに思えて来た。温泉との連関はあまり意味がないかも知れない。 波比岐神と良く並列されて出てくる「阿須波神」にも pa 音が入っている。asir pa と解けば「新年」のことにはなる。as pa と解けば「立ち上る・(湯)煙」ほどの意味が出てくるが、どうであろうか。「新年」の方は「春来」との整合性が良いようであるが。 なお、本論とは関係ないが、大年神と天知迦流美豆比賣の10子のうちに「羽山戸神」があり「大気都比賣」を娶っている。これと、古事記伝承の「豊宇気毘賣」が「和久産巣日」の子とされ、和久産巣日は「彌都波能売」と兄弟(姉妹)であることも或程度の符合が観察される。略図を書くと:
大年と鳥の関係:兵庫県津名郡五色町「鳥飼」中に「大年」地区あり。(淡路島西海岸) 参考: 有史前後以来の状況を立川昭二:日本人の病歴(中公新書)、鬼頭 宏:日本二千年の人口史(PHP研究所)を中心にふり返ってみる。 まずわが国に流行したのは天然痘であったと考えられる。立川によると「四〜五世紀は日朝の交流はきわめて活発であった。彼らの往来をとおして、当然疫病も活発に交流したに違いない。その外来疫病のなかでおそらく主流を演じたのは痘瘡(天然痘)であり、それは仏教伝来と前後して流行状態をつくったのでる。」その後天平七〜九年(735〜737) に痘瘡の大流行が起こり、当時権力の座にあった藤原氏の要人も次々と倒れた。 出典はこちら:老化の科学入門
国土地理院の地図閲覧サービスで島根県で「塞」をキーワードとしても地名は一つも出てこない。「歳」では3個所あるが平田市の「大歳」と付近の「大歳トンネル」と「大歳神社」で実質は一つ。「才」だと、上表に現れない地名としては、才ケ崎、才、才谷、才明寺、才ケ原、小才峠、富山町才坂、下才坂、小才田、才谷、才ノ奥、など総計で28がヒットした。 サイノ神、とは国学者が言ってきたような「塞(さへ)ぎる」神ではなく、「才、歳、年」の神だったのではなかろうか。年の神は恐ろしい疱瘡を流行らせる神であり村村の境で入ってこないように祈願したものだと思われる。 |