欠史時代再構築の試み

orig: 2000/02/04
これまで古代史の断片的な部分に就いて調べてきたが、少しずつそれらの断片がつながりを持ちはじめてきている。

天皇記紀・風土記記事検討
推論
第1代神武
[カム・ヤマト・イハレ・ヒコ]
書紀の一書には「狭野」。古事記では「若御毛沼命 亦名 豊御毛沼命 亦名 神倭伊波禮毘古命」がある狭野」は出雲国引き神話の八束水臣津野命(ヤツカ・ミヅ・オミヅノみこと)の言葉「この国は狭布の稚国であるが・・」に含まれる共通モチーフであり「御毛沼」(ミケヌ)という音は「加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」(カブロギ・クマノの・オオカミ・クシミケヌのみこと)(出雲国造神賀詞)と同じである。
即ち神武の異名に潜む出雲カラーが注目される。神武とは大国主(初代?)か。
第2代綏靖
[カム・ヌナカハ・ミミ]
所造天下大神(大国主)の妃の一人に「奴奈宜波(ヌナカハ比賣命)」がある。彼女の父は「俾都久辰為(ヘツクシヰ)命」で更にその父は「意支(おき)都久辰為(ツクシヰ)命」で「高志国(越の国)」に居る。そして、ヌナカハひめ、は「美穂須須美(ミホススミ)命」を産む。この段は国譲りに際して高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)がその娘「美穂津姫」を「大物主神」に娶わせることの異伝のように覗える
これ以前が「倭国大乱」で(ヒ)ミホ推戴で一旦落ち着いたのであろうか
即ちヌナカハミミ天皇はヌナカハヒメを娶ったのではないか。同時にこの天皇は大国主(職名)の一人ということか。紀記ではこの天皇妃には:事代主神女五十鈴依媛、磯城県主女川派媛、春日県主大日諸女、糸織媛、師木県主祖河俣毘賣 の名前が挙がってはいる。
第3代安寧
[シキツヒコタマデミ]
紀記が伝える后妃は:事代主神孫鴨王女渟名底仲媛、磯城県主葉江女川津媛、大間宿禰女糸井媛、師木県主波延女阿久斗比賣 らである。ここの「渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)」が現われるのは上でヌナカハミミ妃を「ヌナカハヒメ」と推定したのと同期する。即ち、両姫は同人なのに世代を誤って伝承されたのか、或いは、姉妹なのであろうか「ヌナ」が共通する。勿論天皇名にある「玉手見」に「玉・瓊(に/ぬ)」が繋がっている。
ヌナカハ姫、ヌナカハ耳、そして、タマデミ、そして第5代孝昭天皇妃に「磯城県主葉江女渟名城津媛」という名前も挙がっておりここ数代では「ヌナ(玉)」の血脈が根強そうだ。
第4代懿徳
[オホヤマトスキトモ]
后妃と伝えるに紀記は:息石耳命女天豊津媛、磯城県主葉江男弟 猪手女 泉媛、磯城県主太眞稚彦女 飯日媛、師木県主祖 賦登麻和訶比賣 亦 飯日比賣、を挙げる。第2代と第3代の后妃が「川派(カハマタ)」「川津(カハツ)」と来て第4代后妃が「太眞稚彦」の娘とか「賦登麻和訶(フトマワカ)比賣」となり、これにつながりを求めようとするならば putu 「河口」がその役目を果たす。
更に大胆に言えばこの putu が「経津主(フツヌシ)神」につながろうか、ということである。即ち、これがフツヌシが初代から王権を奪って第2代〜第4代と継いだ「国譲り」のことであろうか。
建雷(タケミカヅチ)神も国譲りの主人公の一人だ。天若日子に国譲りを迫ったのは「雉」であった。雉科のヤマドリ・エゾライチョウのことは hum(i)-ruy といい(知里真志保・分類アイヌ語辞典動物編)それは「音の・烈しい/多い/強い」の意味である。一方、雷のことを kamuy-hum といい、文字どおり神が・鳴る、カミナリである。「雉」=「雷」と捉えられる。タケミカヅチは天若日子に殺されたのかもしれない。そうすると、経津主が国譲りの主人公ということになる。第2代〜第4代の putu「フツ」との強い関係も肯けてくる。この経津主は越の「俾都久辰為(ヘツクシヰ)命」であろうか。
ここまでをまとめると、神武=大国主(初代?)を越のフツヌシ勢力が覆し、第2代〜第4代の天皇になってはいまいか。少なくとも神武の子の「手研耳」(九州アヒラツヒメの子)と「ヌナカワ耳」(一応、大物主か事代主の娘が産んだ、という記紀記述を述べておく)の継承権争いが記録されており、これは九州勢力が本土(近畿?越?)に敗れた事を意味している。


欠史8代の后妃たち
欠史8代・再構築の試み・2
欠史8代・再構築の試み・3
欠史8代・再構築の試み・4
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