欠史時代再構築の試み4 ヌナカハに就いて |
漢字表記は「沼河」(神代記・神武記)「奴奈宜波」(出雲風土記嶋根郡)「渟名川」(神武紀)がある。
倭名類聚鈔(巻7・23裏)に越後国頚城郡に「沼川」があり「奴乃加波」と読みが記されている。
今の糸魚川市で海に注ぐ「姫川」がこの沼川に比定され、即ち古代のヌナカハであった、と考えられている。その大きな根拠はこの姫川が翡翠を産出するからである。それも最近の話ではなく「紀元前4000年から」日本全国に流通していたそうである。これに関しては新潟県土木部のHP
と糸魚川市電子郵便局のHP{no link]がお勧めである。(updated:2009/12/18)
姫川が氾濫を繰り返すので厭われて、厭い川=糸魚川とも呼ばれる、ともいう。「糸井」と書いてみると第三代安寧妃として名前が挙がっている「大間宿禰女糸井媛」というのがあり、この姫が糸魚川地方と結びつくなら、第二代綏靖妃として名前の出ている「春日県主大日諸女糸織媛」も因縁浅からぬものがありそうである。ただ、イトイ川、という名称呼称がどこまで溯れるのか今のところ不明である。
世代は第7代に飛ぶが孝霊妃として「磯城県主大目女細媛」という名前が挙がっている。ここで「大目」は「オホマ」であろうから上の「大間宿禰」と関連しそうである。そして「細姫」の「細」を「ホソ」と読む事にすると、姫川上流の小滝川、これこそが翡翠の産地なのだが、pon-so (小さい・滝)が符合してくる。(近代のアイヌ語では pon-so は poy-so と音便変化するようだが、原形で記しておいた。)
欠史8代の妃と越の国の只ならぬ繋がりがありそうではないか。