<「ミサンザイ・考」の考え方> |
・上石津ミサンザイ古墳(百舌鳥古墳群)・伝履中天皇陵(大阪府堺市) ・ 岡ミサンザイ古墳(古市古墳群)・伝仲哀天皇陵(大阪府藤井寺市) ・ 鳥屋ミサンザイ古墳・宣化天皇陵(宮内庁による)(奈良県橿原市) などに見られる「ミサンザイ」という言葉を考え、そこからの展開を見る。 「ミサンザイ」は「ミササキ」から来た言葉だと云われる。 「ミササキ」に「ン」が挿入されて、最後の「キ」が「イ」に変わっている、というものだ。(本論では「サ」「キ」の清濁については吟味しない。) 奈良時代の日本語には「ン」も無かったし、語頭以外に母音が来ることもなかった。いずれも平安時代から見られるようだ。つまり「ミサンザイ」という語形は奈良時代の語ではなく平安時代以降のものだ。
さて、「ミササキ」について、時代別国語大辞典上代編(以下JK)では 「ミササキ」はどのように分解、分析できるだろうか。二つの部分に分析してみると「ミ・ササキ」「ミサ・サキ」「ミササ・キ」が可能であるが、あり得そうなのは最初の「ミ・ササキ」だろう。 JKも「み(御)」の項目の最後の方に「御(ミ)・陵(ササキ)」という用例を上げており、「ミ・ササキ」という分析を示している。しかし、このように「ミ」を「御」の意味に取るのであれば、「ミ」は甲類だと判断していることになり「みささき」の項の説明(「ミ」も「キ」も甲乙は不明)との間には齟齬があることになる。また「御・ささき」と分析するなら「ささき」が墓陵に関する語である、と考えている筈だが「ささき」はそのような語としては掲出されていない。 JKには、「ささき」とは今云う「みそさざい」という名の小鳥のこととして出ている。 仁徳天皇は古事記では「大雀」命と書いて、日本書紀では「大鷦鷯」天皇と書いて「おほ・ささき」(の)みこと/すめらみこと、と呼ばれる。第一義としては「大・みそさざい」かも知れぬが、もしや、「大きな御陵」という意味合いも含んでいるのであろうか。仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳は一、二を争う規模である。 (そうならば、生まれたときからそんな名前だったのだろうか。「おほささき」も死後に「大陵」に因んでの追贈? 竹内宿禰の子との名前「つく」との交換も作り話? 名前交換は「ホムタ」(応神)と「イザサワケ」の間のこととしても伝わっている。ここにも「ササ」の音。「イザサ」「ササキ」の父子。アイヌ語では i-tasa-re 交換する 参照) このように上代語の範疇で「ささき」を墓陵の意味で使うことの確証はないが、少なくともそのような「ささき」と「墓」を関連づける語源意識があったであろうこと伺わせるものがある。以下に述べる。 日本書紀の一云に、天稚彦(あめのわかひこ)の葬儀のとき、種々の鳥が葬儀を執り行うが、その際、鷦鷯(さざき{みそさざい})が哭者(なきめ{泣き女})の役目を負っている。 「みそさざい」を指す方言は多様である。日本産鳥類リスト50音順・みそさざいに列挙されている。そこから関心を引くものを例に挙げてみると「みそくいどり、はかとり、みそさんざい、みそなめどり、みそつつき、みそきち、みそさんざに、さざい、さざえ」などである。ここで「はかとり」という高知方言が目を引く。「墓鳥」の意識であろう。 またこのサイトでは「みそさざい」の漢字表記として「鷦鷯」に加えて「三十三才」を掲げてあるのも面白い;「みそさんざい」を代表として「みそ(三十)さん(三)さい(才)」と宛てたものだろう。なお、「みそさざい」の「みそ」が数値の30を表しているかどうかは不明だ。「三十」と書くのはあくまで宛字であろう。 「みそさざい」を表すアイヌ語もこのサイトに挙げられており「とーしるぼくんかむい」とある(『分類アイヌ語辞典・動物編』で確認ずみ)。ローマ字表記は tosir-pok-un kamuy で「川岸の下の穴・の下・に入る・神」の意味である。第一語の tosir に近い音で tusir と云えばそれは「墓」のことであるのも面白い符合である。即ち、tusir-pok-un kamuy と作ってみれば「墓・の下・に入る・神」となる。音の揺れ、語呂合わせで、みそさざいと墓を関連づけることはできそうである。但し、このような語の実例は見つかっていないが、ここで試みたような o-u が交代する例は多くはなさそうだが、あることはある:tokkari-tuk(k)ar あざらし;tom-tum 〜の中;opas-upas 雪。 上石津ミサンザイ古墳は百舌鳥古墳群に属する。 日本書紀より 「仁徳天皇六十七年冬十月、河内国石津原に幸(いでまし)て、陵地(みささぎのところ)を定め、始て陵(みささぎ)を築つかしめ給ふ。この日、鹿ありて、野中より走来て、役民の中に入り、仆(たお)れ死ぬ。時に、其の忽ちに死ぬることをあやしみて、その痍(きず)を探ると、百舌鳥、耳より出て飛去さりぬ。よりて、耳中を視るに、悉(ことごとく)咋(くい)割(さけ)剥(はげ)たり。故(かれ)、其所を号(なづけて)百舌鳥耳原といふのは、其、是縁也。」 「(神武天皇即位前紀)庚申年秋八月・・天皇、正妃を立てむとす。・・・「事代主神、三嶋溝瀘(くひ)耳神の女(むすめ)玉櫛媛に共(みあひ)して生める兒をなづけて姫蹈鞴五十鈴媛命と曰す。・・・」 瀘「くひ」の部分は「杭」とも「咋」とも書かれる。 注目されることは「溝くひ耳」と「百舌鳥耳原」伝承の間の高い符合である、即ち、「みぞ mizo:もず mozu」、「くひ:くひ」、「みみ:みみ」。「三嶋溝くひ神」が「百舌鳥耳原」と何らかの関係があったやに伺われる;例えばこの地(周辺)に居た、とかこの地に葬られた、ということではないか。 「みそさざい」の古語が「ささき」であり「みそ」が無いが、方言の「みそさざき」などの「みそ」はこの「溝くひ耳」の「溝」なのではなかろうか。少なくとも、そういう理解が古くにあったものではなかろうか。「みそくいどり、みそなめ、みそつつき」という方言も「溝くひ」との関連をより強く印象づける。 近在に「三国ヶ丘」という地名がある。ここが「摂津・(和)泉・河内」の境であり、即ち「三国」=「三島」ということになろうか。ここに方違(ほうちがい)神社がある。(「国造本紀」に「和泉 元河内国、霊亀元年茅野監 即ち改めて国と為す」とあるを見れば「三島溝咋」の時代に三カ国を見ることは無理か。)
この表から、三嶋溝くひの娘の名は「勢夜陀多良比売」、「玉櫛媛」と「活玉依姫」の三通りが抽出出来るが、いずれも同一人物として考えを進める(姉妹であっても構わないだろう)。 古事記(崇神記)の大田田根子の話と三輪伝説によると、大物主が「三嶋溝杭」の娘「活玉依姫」を娶り、その四世孫が大田田根子だ、という。この人は「河内の美努(みぬ)」に居た、という。この場所は、八尾市西高安町と考えられていて、百舌鳥原からは些か遠い。 日本書紀によれば大田田根子は茅渟県の陶邑(すゑむら)(堺市中区上之(陶荒田神社付近))に居た、という。これなら百舌鳥原と近い(直線8kmほど)。「活玉依姫」(ここでは「陶津耳(すゑつみみ)」の娘だ、とされている)も、そして「三嶋溝杭」もその周辺に居たものとすれば、「三島溝杭」がミサンザイ(周辺)に葬られても違和感は無い。 さて、ここで「三島」の周辺について、愛媛県大三島にある大山祇神社、から考えておく。「大三島大山祇神社が長く『三島明神』『三島大明神』とよばれていた・・・」(大山祇神社略誌 p20)。また、延喜式では「大山積神社 伊予越智郡・大山祇・俗称三島大明神」とされる。これらから「三島」と云えば「大山」、「大山」と云えば「三島」のような密接な関係があったようだ。 とすると、今、仁徳天皇陵とされている大仙陵古墳(「大山」古墳とも云われる)と「三島」の関係も無視しがたいものになってくる。 更に「大山咋神」と「三島溝咋」の関係や如何に、という新たな視点もでてきた。今思いつくのは「大山咋神」は「大年神」の子で「大山咋神。亦名山末之大主神」と古事記にあることだ。「陶(すゑ)津耳」とか「陶邑」など「陶」の字で陶器を連想してしまうが意味は「末(すゑ)」なのかもしれない。「山末」にいる「大山咋」と「陶邑」にいる「陶津耳」、そして「大山」と関係する「三島」と「咋」を共有することから「大山咋」と「三島溝咋」、これらが実は同根の伝承が変化したもののように思われてくる。 まとめ
・「ささき」は今の「みそさざい」 |
溝くひ耳 →百舌鳥・耳・くいちぎられる↓ ↑ ミサンザイ 陶邑←←三島・溝咋 ←← ミソクイドリ ←← ミソサザイ ←←ササキ ↓ ↓ 山末←←大山 咋 ミササキ(御陵) オホササキ(仁徳;大陵) |
なお、 ・土師ニサンザイ古墳(百舌鳥古墳群)・伝反正天皇陵(大阪府堺市) ・淡輪ニサンザイ古墳 ・五十瓊敷入彦陵(by宮内庁)(大阪府泉南郡岬町淡輪) に見られる「ニサンザイ」は上述の「ミサンザイ」の訛りに過ぎないようでもあるが、百舌鳥古墳群の場合には異なる墳墓の名称として使い分けているようにも見える。 |
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