まだモヤモヤしてるが、大国主の周辺にあるミカタ、三方、御方、三名、ミナカタ、ミワという語群が縄文語(実はアイヌ語を援用)の re ka-tak (三つの・糸・玉)で括れるのではないか、というテーマである。 1.葦原志許乎命(が)天日槍命と争いで黒葛(つづら)三條(み・かた)を足に着けて投げた、それが三方の語源、という説話がある。これを播磨風土記・2で re ka-tak 三つの・糸・玉と解いた。 2.葦原志許乎命が越のヌナカハ姫を娶って建御名方が生まれる。(先代旧事本紀)三名方、と書いても良かろう。アイヌ語 re は 3、も 名、も意味する。 3.大国主と宗像の辺津宮の高津姫の間に「都味歯八重事代主」が生まれる。(先代旧事本紀)古事記では神屋楯比賣との間、とされる。ここの「八重」を「ハエ」と読む可能性に留意しておく。(八をハと読む例、下記) 4.都味歯八重事代主と三嶋溝杭の娘、活玉依姫、の間に「天日方奇日方」が生まれる。その妹が「姫鞴五十鈴姫」で神武の皇后である(先代旧事本紀)。これが日本書紀では、事代主と玉櫛媛との間の娘が姫鞴五十鈴姫だ、となっている。三島溝杭の娘である、ともしているので、活玉依姫と玉櫛媛は同一人物と思われる。 5.古事記では、大物主が陶津耳の娘、活玉依毘賣を娶って産ませた子を「櫛御方」とする。母の名前が一緒だし「奇日方」(クシヒカタ)と「櫛御方」(クシミカタ)の酷似から、4.と5.の話は同源であろう、と思われる。「クシミカタ」の方がオリジナルであろうか、というのは re ka-tak で通じるからである。 6.ミカタ=re ka-tak=三つの・糸・玉、は三輪伝説にも繋がる。即ち、上記5.の活玉依毘賣が夜毎訪れる神の正体を見極めようと、その神の衣の裾に糸を刺しておいた、翌朝その糸をたどっていってみたら美和山だった、また、その糸は「三勾(みわ)」残っていた、という説話がある。それで生まれたのが「櫛御方」と来れば、この一連の話は re ka-tak に収斂されよう。 7.上記5.の陶津耳とは賀茂建角身である、との考証をした。ここ 8.さて欠史8代の后妃に関して、日本書紀本文は事代主の子孫が后妃であるとし、第一の一書は磯城縣主葉江の子孫だとする。古事記も「波延」と書くが同じく「ハエ」だ。上記3.で見たように事代主は「八重事代主」とも呼ばれ、この八重を「ハエ」と通じさせれば、この二つないし三つの欠史8代后妃に関する伝承は同源であることが推察される。 9.上記3.で述べたように事代主の母である高津姫は辺津宮に居た。古事記の言う屋楯比賣の所在は分からない。アイヌ語で「辺津」に相当する言葉に ya un があり、これは陸(沖ではなく)に居る、という意味がある。この ya が「屋」であろうか、とは思っているも、これだけでは心もとない。さて、アヂスキタカヒコの母である田心姫(先代旧事本紀)、多紀理毘賣(古事記)は宗像三女神の一で奥津宮に居た。奥津とは沖津であろう。沖に居る、というアイヌ語は rep un である。rep は又、三つ、の意味を持つ。即ち、沖の島は三島である。斯様に「三島溝杭」の三島が炙り出される。 10.上に見たように、大国主系と宗像系の婚姻に、「3」「沖」「名」の意味を持つ re(p) という音が通時的に出てくる。そして、 re ka-tak 三つの糸玉が三輪系に展開している風である。 11.将来展望としては、越のヌナカハ姫、ミナカタ、が上記にどう整合するかを見る事にする予定である。 |
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