出雲・国引き物語
越と出雲2

国引き物語りにある縄文語候補

orig: 20001/03/10
rev1: 2001/04/18 縫う・追記
2001/08/13 能登国変遷追記

出雲風土記に出てくる国引き物語は幾つか面白いことを教えてくれる。
出発地と到着地
どこの地を出雲のどこへ引っ張ってきたか
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出発地
到着地
1志羅紀の三埼去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼
2北門の佐伎の国多久の折絶から狭田の国
3北門の農波の国宇波の折絶から闇見の国
4高志の都都の三埼三穂の埼
1と4は或る意味で簡単だ。つまり出雲外の地から、岬だか、その地に属する人だか判らないが、を出雲の地に引っ張ってきて、それがどこだ、と言っている。志羅紀は新羅であり、スサノヲが新羅から出雲へ来たという話も背景にあって分かり易い。高志は越であり、都都とは能登半島の珠洲だろう、と考えられている。能登が属していた国の変遷は下記。
この高志都都三埼を出雲の三穂埼に引っ張って来た、というのは面白い。それは造天下大神命(大己貴、大国主のことでいいだろう)が高志のヌナカハ比賣命に生ませたのが御穂須須美命で、美保に祭られているからだ。(出雲風土記嶋根郡)三穂埼と三保、都都と須須の対応が興味を引く。更に、日本書紀では、タカミムスビが国譲りに際してその娘、三穂津姫、を大物主に娶わせている。(これらから、筆者はタカミムスビと越の関係に興味を抱いている)
このように1と4は出雲外の地を出雲に引いてきた事が窺えるのに対して、2と3に関しては「北門」とは「出雲の日本海側の港」としている(岩波風土記頭注p101)。これでは、北門の農波の国を宇波の折絶から闇見の国に引っ張ってきた、と言っても、出雲発出雲着、ではどうもオモシロクない。というか、国引きになっていない。
農波はヌナミ、と読まれている。ヌナカハ比賣の地、ヌナ、と関連付けられないだろうか。そうだとすると、佐伎を埼と捉えて越後方面の「崎」地名が幾つか想起される。柿崎、柏崎、出雲崎など。つまり、国引き物語でいう高志は後の越前能登越中辺りまでで越後を北門と表現していたのではあるまいか。
毛々曽々呂々
国引き物語が教えてくれる事の次は(他にも教材はあるのだが)「毛々曽々呂々」などに使われている繰り返し記号「々」の用法である。「毛々曽々呂々」は今の使われ方によれば「モモソソロロ」と読むであろう。これは「モソロ・モソロ」(そろそろと、ゆっくりと)と読む。同様に「国々来々」ともあるが、これは「国国、来い来い」ではなく「国来い、国来い」である。また、「闇々耶々」というのもある。「繰るや、繰るや」だ。と言うわけで、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の「勝勝」も「カチカチ」ではなく「カカチチ」と読むべきではなかろうか、という拙文を上げてある。マヤワカ考
狭布稚国
国引き物語の冒頭はこうである。「国引きをした八束水臣津命の言うには、八雲立つ出雲の国は狭布の稚国であるなぁ。」狭布と書いて「サヌ」と読み、稚国は若い国の意味。出雲の国は狭く、若い国なので、どっかから土地(人間?)を引っ張ってこよう、というのだ。神武天皇も「内木綿のマサキ国・・・」と呼び「狭い国」といっている(小生の解釈は異なるが)。神代にも「天之狭土神、国之狭土神、天之狭霧神、国之狭霧神」など「狭」の字が頻繁に出てくる。
神武天皇の幼名に「狭野命」というのがある。出雲風土記の「狭布」と同じ発音「サヌ」になる。神武天皇の他の名前に「御毛野」(ミケヌ)というのもあり、出雲熊野大社の祭神、かぶろき熊野の大神 櫛御気野命、の「御気野」もミケヌだ。と言う事どもから、神武モデルの出雲出自がありそうである。参考:神武私註・彦火火出見また、欠史8代の再構築
国引き
出雲風土記に述べられる八束水臣津野命による「国引き」物語りにも数多くの縄文起源かと思われる語彙が出てくる。これは別ファイルにした。ここをクリックして「国引き」を参照願う。

能登地方の国名変遷:
大化の改新(645-)まで能登国造・羽咋国造というのがあった。(先代旧事本紀)
大化の改新で「越前国」に属する
後、718 に「羽咋、能登、鳳至、珠洲」の4郡を越前から割いて「能登国」とする。
741に越中に合併
757に能登国に復旧。
出雲風土記が書かれたのが733(奥付による)とすると、同地が能登国と呼ばれている筈の時期。従って、「高志之都都乃三埼」とあるのは古称ということであろう。


参考資料:未完状態のもの多し
越と出雲1:カグツチ
越と出雲3:カグツチの異名
越と出雲4:カゴヤマとムラクモ
欠史8代の再構築・8
欠史8代の再構築・7
欠史8代の再構築・6
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欠史8代の再構築・4
欠史8代の再構築・3
欠史8代の再構築・2
欠史8代の再構築・
欠史8代の后妃たち